ギレム家
ギレム家(フランス語:Guilhemide/Guilhelmides)またはヴィルヘルム家(フランス語:Wilhelmides、ドイツ語:Wilhelmiden)は、8世紀から10世紀にかけて存在した、カロリング家と血縁関係にあったフランク王国貴族の家系。一族はオータン発祥で、後にその領地をセプティマニア(アキテーヌおよびラングドック)に広げた。家名は一族で最も有名な聖人ギヨーム・ド・ジェローヌからつけられたが、ティエリーおよびベルナールの名が一族ではよく用いられた。
歴史
[編集]起源
[編集]一族の始祖は742年から750年までオータン伯であったティエリーである。ティエリーはカール・マルテルの娘とみられる[1]アルダと結婚した。子孫にはティエリー、ベルナール、エリベールおよびロランドの名が見られ、1965年にEduard Hlawitschkaは一族の始祖がベルトラード・ド・プリュム(Bertrade de Prüm)であるとした。実際、ベルトラードがプリュム修道院を創設した際、息子カリベール(エリベール)および親族のロランド、ベルナール、ティエリーの立ち会う中、署名している[2]。
オータン伯
[編集]742年にはティエリー1世がすでにオータン伯であったことから、一族の最初の本拠地であるオータンはカロリング家が王位に就く以前に一族に預けられていたと見られている。ティエリー1世の長男の家系は2世代後にオータンを手放し、弟系の子孫が873年まで保持していたが、その後ニーベルング家(en)がオータン伯となった。
アキテーヌおよびセプティマニア
[編集]ロンスヴォーの戦いの後、カール大帝はトゥールーズ伯トーソンへの信頼を失い、代わりに従兄弟ギヨームをトゥールーズ伯に任じた[3]。これが一族の南ゴール、アキテーヌおよびセプティマニア、さらにはラングドックへの進出の嚆矢となった。皇帝ルートヴィヒ1世の治世の後、ベルナール・ド・セプティマニーは皇帝の息子たちの争いや843年のヴェルダン条約後の対立に乗じ、カタロニアおよびセプティマニアに領地を築いた[4]。彼の業績は息子ベルナール2世が引き継いだ[5]。その息子ギヨームは、トゥールーズおよびラングドックを失ったがアキテーヌ公となり、ギヨームの甥の死後にアキテーヌ公領はライバルであったポワティエ家の手に渡った[6]。
ポワティエ伯
[編集]815年、皇帝ルートヴィヒ1世はポワティエ伯領を家臣のベルナール1世に与え、ベルナールは少なくとも825年まで伯位にあった。828年にはエメノンがポワティエ伯に任ぜられた[7]。エメノンはギレム家の一員とみられるが、どのような関係かは議論が分かれている。アロームの息子[8]とも、アロームの子とされるポワティエ伯ベルナール1世の息子[9]とも言われている。エメノンの一族はポワティエおよびトロワを本拠地としようとしたが、894年にブルゴーニュ公リシャールによりトロワを奪われ、902年にはポワティエ家のエブル・マンゼによりポワティエを奪われた[10]。
系図
[編集]オータン伯、セプティマニア辺境伯、アキテーヌ公
[編集]ベルトラード・ド・プリュム | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カリベール ラン伯 | ロランド | ベルナール | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カール・マルテル | ティエリー | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ベルトラード | ピピン3世 フランク王 | アルダ | ティエリー1世 (c.720-c.782) オータン伯 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カール大帝 フランク王 | テオドエ (Theodoen) (-826以降) オータン伯 | ティエリー | アローム (アダレルム) (下系図参照) | キュネゴンド | ギヨーム・ド・ジェローヌ (c.755-812) トゥールーズ伯 | ギブール | アッバ 修道女 | ベルタ 修道女 | アルダ =フレドロン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ティエリー2世 オータン伯 | エルベール (-841以降) 830失明 | ベルナール1世 (802以前-844) オータン伯 セプティマニア辺境伯 | ドゥオダ 824結婚 | ジュルベルジュ (-834) 修道女 | ゲラン (ワラン) オーヴェルニュ伯 オータン伯 | ゴーセム (-834) ルシヨン伯 イロナ伯 | ティエリー3世 (-841以前) オータン伯 | ロトリンド (ロランド) =ワラ(後にコルビー修道院長) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
キュネゴンド =イタリア王ベルナルド | セネゴンド =ルエルグ伯フルコアール | ギヨーム (826-850) アジャン伯 トゥールーズ伯 バルセロナ伯 | ロゼリンド =アングレーム伯ヴュルグラン1世 | ベルナール2世 (毛深脚伯) (841-886) オーヴェルニュ伯 オータン伯 トゥールーズ伯(3世) | エルマンガルド | イザンバール オータン伯 | ベロニド家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フレドロン トゥールーズ伯 | レーモン1世 トゥールーズ伯 | エンゲルベルガ (プロヴァンス王ボソ娘) | ギヨーム1世 (敬虔公) (875-918) アキテーヌ公 オーヴェルニュ伯(2世) | アデリンド | アクフレ1世 カルカソンヌ伯 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トゥールーズ家 | ルボー1世 | エルマンガルド | ギヨーム2世 (-926) アキテーヌ公 オーヴェルニュ伯(3世) | アクフレ (-927) アキテーヌ公 オーヴェルニュ伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ボソ2世 アルル伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
プロヴァンス家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ポワティエ伯、トロワ伯
[編集]縦破線は推定。
アローム (アダレルム) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ベルナール1世 ポワティエ伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
サンシー (ガスコーニュ公サンシュ1世娘) | エメノン ポワティエ伯 アングレーム伯 ペリゴール伯 | トロワ伯ウード1世娘 | テュルピオン (テュルパン) アングレーム伯 | ベルナール2世 ポワティエ伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルノー ガスコーニュ公 | アデマール1世 (エマール) ポワティエ伯 アングレーム伯 | サンシー (ペリゴール伯ギヨーム1世娘) | アダレルム トロワ伯 | エルマンガルド | マナセ1世 シャロン伯 トロワ伯 (ヴェルジー家) | ベルナール3世 セプティマニア辺境伯 | エメノン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジルベール シャロン伯 トロワ伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ フランス語版Aude de Franceの記事参照。
- ^ Settipani 1993, p. 173-6
- ^ Dillange 1995, p. 28
- ^ Riché 1983, p. 154, 163, 190
- ^ Riché 1983, p. 191, 201
- ^ Riché 1983, p. 201
- ^ Dillange 1995, p. 29-32
- ^ Dillange 1995, p. 294
- ^ Settipani 2004, p. 196
- ^ Édouard de Saint-Phalle, « Comtes de Troyes et de Poitiers au ixe siècle : histoire d’un double échec » dans Onomastique et Parenté dans l'Occident médiéval, Oxford, Linacre College, Unit for Prosopographical Research, coll. « Prosopographica et Genealogica / 3 », 2000, 310 p. (ISBN 1-900934-01-9), p. 154-170.
参考文献
[編集]- Pierre Riché, Les Carolingiens, une famille qui fit l'Europe, Paris, Hachette, coll. « Pluriel », 1983 (réimpr. 1997), 490 p. (ISBN 2-01-278851-3)
- Christian Settipani, Les Ancêtres de Charlemagne, Paris, 1989, 170 p. (ISBN 2-906483-28-1)
- Christian Settipani, La Préhistoire des Capétiens (Nouvelle histoire généalogique de l'auguste maison de France, vol. 1), Villeneuve d'Ascq, éd. Patrick van Kerrebrouck, 1993, 545 p. (ISBN 978-2-95015-093-6)
- Michel Dillange, Les comtes de Poitou, ducs d'Aquitaine : 778-1204, Mougon, Geste éd., coll. « Histoire », 1995, 303 p., ill., couv. ill. en coul. ; 24 cm (ISBN 2-910919-09-9, ISSN 1269-9454, notice BnF no FRBNF35804152)
- Christian Settipani, La Noblesse du Midi Carolingien, Oxford, Linacre College, Unit for Prosopographical Research, coll. « Occasional Publications / 5 », 2004, 388 p. (ISBN 1-900934-04-3)
Christian Lauranson-Rosaz, « Les Guillelmides : une famille de l’aristocratie d’empire carolingienne dans le Midi de la Gaule (VIIIe-Xe siècles) », dans Entre histoire et épopée. Les Guillaume d’Orange (IXe-XIIIe siècles). Hommage à Claudie Amado. Proceedings of the international symposium organized by FRAMESPA (UMR 5136) on 29 and 30 October 2004.