ギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハ
ギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハ Girvan Yuddha Bikram Shah | |
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ネパール国王 | |
ギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハ | |
在位 | 1799年 - 1816年 |
戴冠式 | 1799年3月8日 |
出生 |
1797年10月19日 カトマンズ、ハヌマン・ドーカ宮殿 |
死去 |
1816年11月20日 カトマンズ 、ハヌマン・ドーカ宮殿 |
配偶者 | シーディー・ラージャ・ラクシュミー・デビー |
ゴーラクシャ・ラージャ・ラクシュミー・デビー | |
ほか | |
子女 |
ナレンドラ・ビクラム・シャハ ラジェンドラ・ビクラム・シャハ ほか |
王朝 | ゴルカ朝 |
父親 | ラナ・バハドゥル・シャハ |
母親 | カンティワティー・デビー |
宗教 | ヒンドゥー教 |
ギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハ(Girvan Yuddha Bikram Shah、1797年10月19日 - 1816年11月20日)は、ネパール王国の第4代君主(在位:1799年 - 1816年)。父は第3代君主ラナ・バハドゥル・シャハ。
生涯
[編集]1797年10月19日、ギルバン・ユッダはラナ・バハドゥル・シャハの息子(庶子)として生まれた[1]。母は父の溺愛するブラーフマナの娘の内妃カンティワティー・デビーである[2]。
1799年、1歳2ヶ月のとき、父王が禁欲主義者となるために退位したため、王位に就いた[2][1]。だが、年長の嫡子ラノディヨートを差し置いての譲位であったため、重臣らは95名はそれを認める起請文を書かされ、戴冠式には近隣諸国で最も強力なパルパのプリトヴィーパーラ・セーナ王が招かれた[2]。
幼少のギルバン・ユッダは父ラナ・バハドゥル、ラージ・ラジェシュワリー・デビー王太后、および宰相ビムセン・タパの摂政の下で統治した。その間、パルパをはじめとする領土を獲得し、西方サトレジ川に至るまで進出した。
だが、1814年から1816年にかけてイギリス東インド会社との間にグルカ戦争(英・ネパール戦争)が行われ、スガウリ条約で国土のおよそ1/3を失った[3]。以後、ネパール王国はイギリスの保護国であると同時に、清朝の朝貢国であるということになり、この二重状態は清が滅ぶ1912年まで続いた。
1816年11月20日、ギルバン・ユッダは19歳で崩御した。グルカ戦争終結後に天然痘が流行、三都の住民の多くが死亡し、彼もそのうちの一人となったのである[4]。崩御後、息子のラジェンドラ・ビクラム・シャハがあとを継いだ[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 佐伯和彦『世界歴史叢書 ネパール全史』明石書店、2003年。