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ギジツコ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ギジツコ
ギジツコ
ギジツコ
ギジツコの旗
ギジツコの紋章
紋章
ギジツコの位置(ポーランド内)
ギジツコ
ギジツコ
北緯54度2分24秒 東経21度45分32秒 / 北緯54.04000度 東経21.75889度 / 54.04000; 21.75889
ポーランドの旗 ポーランド
ヴァルミア=マズールィ県
ギジツコ郡
基礎自治体 ギジツコ(都市型自治体)
建設 1335年
町権 1612年
政府
 • 町長 Wojciech Iwaszkiewicz
面積
 • 合計 13.87 km2
最高標高
142 m
最低標高
116 m
人口
(2021年)
 • 合計 28,597人
 • 密度 2,100人/km2
等時帯 UTC+1 (中央ヨーロッパ時間)
 • 夏時間 UTC+2 (中央ヨーロッパ夏時間)
郵便番号
11-500
市外局番 +48 87
ナンバープレート NGI
ウェブサイト gizycko.pl

ギジツコポーランド語: Giżyckoドイツ語: Lötzen[ˈlœt͜sn̩, ˈløːt͜sn̩] ( 音声ファイル) レッツェン)、リトアニア語: Lėciusレーシウス)、旧称レツ (Lec))は、ポーランド北東部のヴァルミア=マズールィ県(旧 スワウキ県)に位置する町。人口は2021年の時点で2万8597人。ギジツコ郡の郡庁所在地である。

歴史

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1340年にドイツ騎士団がマズールィ地方の湖に挟まれた地峡に城を築き、レッツェン(ポーランド語ではレツ)と名づけた。レッツェンはバルガ郡に属し、近くの入植地も紋章や印章の制定権を含んだ町権を取得し、1612年には全域がプロシア公領に入った。

伝説によると、聖人クヴェーアフルトのブルーノは1009年にスドヴィア人によってニェゴツィン湖で殺された。これを記念して、1909年には十字架がギジツコ近郊に建立された。

1701年にプロイセン王国となり、1773年には東プロイセンの一部となった。1709年から1710年にかけてペストが流行し、800人が犠牲となった。生き残った住民はたったの119人だった[1]。19世紀にはカルル・フリードリッヒ・シンケルの設計によるルーテル教会が町の中心部に建てられた。1871年にドイツ統一ドイツ帝国に入った。

1844年から1848年にかけ、マムリー湖(マウアセー湖)とニェゴツィン湖(レヴェンティンセー湖)の間の土地に要塞が築かれ、プロイセンのヘルマン・フォン・ボイエン軍事相にちなみボイエン要塞と名づけられた。19世紀中は最大で、かつ最も設備の整った要塞であった。1942年から1945年にかけてはラインハルト・ゲーレンの指揮下でドイツ軍事インテリジェンス・サービスの本部が置かれた。

ヴェルサイユ条約締結を受けて1920年7月11日に国際連盟の監視下で実施された東プロイセン国民投票では、99.97%(2万9378票)がドイツ残留を希望し、0.03%(9票)がポーランド移管を求めた。

1930年代、レッツェンにはケーニヒスベルク(現 カリーニングラード)に本部を置いた軍事1区の支部があり、軍事部隊が何隊か駐屯した。総統大本営「ヴォルフスシャンツェ」や陸軍総司令部もレッツェン近郊に置かれ、職員、工兵、警備兵が駐在した。今もギジツコの北およそ10kmのマウアーヴァルト地域に陸軍総司令部の掩体壕が残されている。

第二次世界大戦末期の1945年にソ連赤軍に占領され、戦後ポーランドに組み込まれた。戦時中も留まったドイツ人は西に追放された。19世紀に東プロイセン南部で福音派ルーテル教会の牧師を務め、ポーランド語とポーランド文化を支えたマズーリ人民俗学者のグスタフ・ギゼヴィウシュ英語版にちなみ、1946年にギジツコと改称された。

人口の推移[2]

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年度 人口
1875年 4034人
1880年 4514人
1890年 5486人
1925年 1万552人
1933年 1万1847人
1939年 1万4000人
2004年 2万9796人
2006年 2万9667人
2021年 2万9667人

ゆかりの人物

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  • フリッツ・ミルカウ(1838年-1918年) 文献収集家
  • アダルベルト・フォン・ヴィンクラー(1838年-1918年、ポーランド名:ヴォイツェフ・ケントジニンスキ) ドイツの血を引くポーランド活動家
  • ルドルフ・ナドルニー(1873年-1953年) 外交官
  • フランツ・フェンメルト(1879年-1954年) 出版業者
  • ホルスト・ガーラッヒ(1919年-1990年) ドイツ連邦議会欧州議会議員
  • ロタル・ガル(1936年-) 歴史家
  • ヤン・ブウハク(1876年-1950年) ポーランド写真界のパイオニア
  • マリア・パクルニス 女優
  • マテウシュ・クシュニェレヴィチュ 町長、ポーランド・バンディ連盟総裁[3]

姉妹都市

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脚注

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  1. ^ Kossert, Andreas (2006). Masuren. Ostpreußens vergessener Süden. Pantheon. ISBN 3570550060  (ドイツ語)
    Kossert, Andreas (2004). Mazury, Zapomniane południe Prus Wschodnich. ISBN 83-7383-067-7  (ポーランド語)
  2. ^ [1]
  3. ^ [2]

外部リンク

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