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金俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金俊
各種表記
ハングル 김준
漢字 金俊
発音 キム・ジュン
日本語読み: きん しゅん
RR式 Gim Jun
MR式 Kim Chun
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金 俊(キム・ジュン、? - 至元5年12月21日1269年1月24日))は、高麗の武臣・権臣である。元々の名前は金仁俊で、武臣政権の第9代執権者であった。

生涯

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崔忠献(チェ・チュンホン)の家奴だった金允成の子として生まれた。崔瑀(チェ・ウ)に推薦され、崔沆に仕え、殿前承旨などに命された。

高宗44年(1257年)、崔沆が死ぬと、子の崔竩(チェ・ウィ)が務める執権に不満を抱き、高宗45年(1258年)3月、林衍(イム・ヨン)・柳璥朝鮮語版崔昷朝鮮語版らと共に三別抄を使って崔竩を暗殺した。

崔氏政権を打倒して王権を回復させた功労により、正四品の将軍として衛社功臣の称号が与えられた。元宗元年(1260年)、衛社功臣の序列を改正し、柳璥を第5位に退けて、代わりに金俊を第1位に押し上げ、枢密院副使となった。元宗5年(1264年)、教定別監に任命され、国家の非違の糾察と国使観察を担当した。続いて門下侍中になり「海陽侯」に奉じられて、かつての崔忠献になぞらえて権勢をふるった。

元宗9年12月(1269年1月)、国王の親モンゴル政策に反対したため、側近の林衍に暗殺された。

家族

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  • 父親:金允成朝鮮語版
    • 兄弟:金沖(?-1269年)
    • 兄弟:金承俊(?-?)- 金沖の改名前の名前との説もある。
    • 夫人:未詳
      • 息子:金用材(?-1269年)- 後に金主に改名する。
      • 息子:金碩材(?-1263年?)- 戊午政変後に死亡したと推定される。
      • 息子:金大材(?-1269年)
    • 愛人:未詳
      • 息子:金皚(?-1269年)
      • 息子:金棋(?-1269年)
      • 息子:金靖(?-1269年)

文化に見られる金俊

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参考文献

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関連項目

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先代
崔竩
高麗武臣政権の執権者
1258年-1268年
次代
林衍