キッド・オリー
キッド・オリー | |
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基本情報 | |
出生名 | エドワード・オリー |
生誕 | 1886年12月25日 |
出身地 | ルイジアナ州ラプラース(LaPlace) |
死没 | 1973年1月23日(86歳没) |
ジャンル | ディキシーランド・ジャズ |
職業 |
トロンボーン奏者 作曲家 |
担当楽器 | トロンボーン |
共同作業者 |
ルイ・アームストロング ジェリー・ロール・モートン バーニー・ビガード ジミー・ヌーン ジョー・ダレンスバーグ |
エドワード・“キッド”・オリー(英語: Edward "Kid" Ory。1886年12月25日 - 1973年1月23日)は、ジャズのトロンボーン奏者でバンドリーダーである。彼はルイジアナ州ラプラース(LaPlace)近くのウッドランド・プランテーションに生まれた。
オリーは幼少の頃、自作の楽器で音楽の演奏を始め、ティーンまでにはルイジアナ州サウスイーストでちゃんとしたバンドを率いていた。彼は家庭の決まりのため 21 歳の誕生日まで活動拠点としてラプレイスに留まったが、21 歳の誕生日を迎えると自分のバンドをルイジアナ州ニューオーリンズに移した。
オリーは1910年代にニューオーリンズでとりわけ有名なバンドを持っていて、ニューオーリンズの偉大なジャズ・ミュージシャンたちを数多く雇っていた。その中にはジョー・“キング”・オリヴァー(Joe "King" Oliver)、マット・キャリー(Mutt Carey)、ルイ・アームストロング、それからクラリネット奏者のジョニー・ドッズとジミー・ヌーンらがいた。
オリーは1919年にロサンゼルスに引っ越し - その頃、多くのニューオーリンズのミュージシャンたちがそうしていた - 1922年にそこであるバンドと録音をした。そのバンドにはマット・キャリー、クラリネット奏者でピアニストのディンク・ジョンソン(Dink Johnson)、コントラバス奏者のエド・ガーランド(Ed Garland)らがいた。ガーランドとキャリーは長年の仲間で、オリーが1940年代に復帰するまでの間も、なおそれでもオリーと演奏しようという意志を持っていた。1925年に、オリーはシカゴへ引っ越した。そこでは彼は非常に活動的で、ルイ・アームストロング、ジェリー・ロール・モートン、キング・オリヴァー、ジョニー・ドッズ、その他大勢の人々と仕事をし録音をした。
世界恐慌の中、オリーは1933年に音楽から引退し、1943年まで再び演奏をしようとはしなかった。1944年から1961年頃まで、彼はその時期とりわけ頂点を極めるニューオーリンズ・スタイルのバンドのひとつを率いていた。マット・キャリー、エド・ガーランド、トランペット奏者のアルビン・アルコーン(Alvin Alcorn)とテディ・バックナー(Teddy Buckner)もさることながら、クラリネット奏者のダーネル・ハワード(Darnell Howard)、ジミー・ヌーン、アルバート・ニコラス(Albert Nicholas)、バーニー・ビガード、ジョージ・プロバート(George Probert)、ピアニストのバスター・ウィルソン(Buster Wilson)、セドリッウ・ヘイウッド(Cedric Haywood)、ドン・イーウェル(Don Ewell)、ドラマーのマイナー・ホール(Minor Hall)達が、この時期、オリーの楽団員に混ざって演奏していた。
オリーのバンドはニューオーリンズ・ジャズへの関心を復興させ、録音のみならず人気ラジオ番組 - それらの番組の中にはオーソン・ウェルズの『オールマナック』(Almanac)の放送やスタンダード・オイル提供のジャズの歴史シリーズもあった - を製作させる有力な影響力を持った。
オリーは「マスクラット・ランブル」、「オリーズ・クレオール・トロンボーン」、「サヴォイ・ブルース」の作曲者でもあった。オリーは1966年に音楽から引退し、晩年はハワイ州で過ごし、ホノルルで死去した[1]。