ガンダーラ語
ガンダーラ語(ガンダーラご、Gāndhārī)は、紀元前3世紀から紀元後3世紀ごろにかけて南アジア西北部(現在のパキスタン北部とアフガニスタン東部)にあたるガンダーラ地方で使用されたインド語派の言語で、中期インド語(プラークリット)のひとつ。ガーンダーリーとも呼ぶ。
南アジアのほかに、中央アジアでも使われている。書かれた時代差・地域差・目的の差に起因する違いを除けば、これらのテキストに使われている言語はほぼ同じ特徴を示す[1]。
名称
[編集]古くは単に「北西プラークリット」と呼ばれていた。ハロルド・ウォルター・ベイリーが「Gāndhārī」の語を使って以来、その語が使われるようになった[2]。
ガンダーラ語文献
[編集]ガンダーラ語の文献はカローシュティー文字で右から左に書かれる。アショーカ王の磨崖詔勅が古く、ほかに貨幣の銘文、中央アジアのニヤ遺跡などで発見された文書、および主に1990年代以降にアフガン内戦にともなって大量に流出したガンダーラ語仏教写本などがある。特に大英博物館が入手したものは、調査を行ったリチャード・サロモンによると1世紀前半の法蔵部のものであり、仏典としては現存最古である。「仏教界の死海文書」と呼ばれることもある[3]。
現在までに発見された文献の詳細はカローシュティー文字を参照。
言語の特徴
[編集]ガンダーラ語の音韻体系は、表記上の制約のため、また音価の不明な文字があるため、完全にはわかっていないが、全体的には以下のような特徴を持つ。
- 他の中期インド語と共通の特徴。
- ガンダーラ語に固有の特徴。
- アクセントのない母音の弱化と、それによる母音表記の不安定化。とくに語末では o → u, e → i になることが多い。同じ単語でも異なった母音で書かれることがある。
- サンスクリットにある3つの歯擦音 (ś ṣ s)を区別する。パーリ語ではすべて s になっている。3つの歯擦音の区別はサンスクリットとだいたい対応するが、サンスクリットの śr が ṣ になるなど、独自の変化もある。
- サンスクリットの kṣ にあたる専用の文字がある。正確な音価は不明だが、他のプラークリットのように消滅していない。
- パーリ語では子音連結がほぼ完全に消滅しているのに対し、ガンダーラ語はいくつかの子音連結を残している。
漢訳仏典との関係
[編集]初期漢訳仏典の音訳語の特徴が、サンスクリットではなくプラークリットの一種に由来することを示しており、かつガンダーラ語に近い音韻的特徴を持っていることは1930年代にすでに指摘されていたが[4]、肝心のガンダーラ語で書かれた仏典は19世紀末にホータン近辺で発見されたガンダーラ語法句経しかなかった。しかし近年になってガンダーラ地方から大量の仏典が発見された。
ジョン・ブラフによると[5]、
- サンスクリットの anavatapta を「阿耨達池」とするのは、ガンダーラ語の aṇuva- に由来すると考えるとよく理解される。
- サンスクリットの jāmbūnada を「閻浮檀」とするが、ガンダーラ語法句経では jabodaṇa と音位転換を起こしており、ガンダーラ語に由来すると考えるとよく理解される。
また、長阿含経の音訳語はサンスクリットに由来しないが[6]、ś ṣ s の区別は保たれており、ガンダーラ語的な特徴を示している。śramaṇa が「沙門」(沙はそり舌音 ṣa に対応)と訳されるのはガンダーラ語の ṣamaṇa に由来すると考えると理解される。
例
[編集]ガンダーラ語法句経より、パーリ語とサンスクリットに対応のある第215詩を示す[7]。8音節からなる句を4つ並べた韻文形式(シュローカ)になっている。
ガンダーラ語 ダルマパダ (215) |
パーリ語 ダンマパダ (311) |
サンスクリット ウダーナヴァルガ (11.4) |
漢訳 法句経 地獄品第三十 |
---|---|---|---|
śaru yadha drugahido hasta aṇuvikatadi |
kuso yathā duggahito hattham evānukantati |
śaro yathā durgr̥hīto hastam evāpakr̥ntati |
譬如抜菅草 執緩則傷手 学戒不禁制 獄録乃自賊。 |
逐語訳: まずく握られた(dru-gahido)矢が(śaru)[8]手を(hasta)切る(aṇu-vi-katadi)ように(yadha)、まずく行った(dro-para-muṭho)修行は(ṣamaña)地獄に(niraya)引きこむ(uva-kaḍhadi)。
カローシュティー文字の制約により、ガンダーラ語では母音の長短の区別や重子音が示されていない。また法句経では原則として ṃ は表記されない[9]。
ガンダーラ語のテキストはパーリ語のものによく似ているが、母音間の子音の有声化(yathā → yadha・upa- → uva-)、語末母音の弱化がはっきり見られる。サンスクリットの hastam 「手」はパーリ語では hattham に変化しているが、ガンダーラ語では hasta と子音連結を残している[10]。dur- 「悪く」は音位転換をおこして dru- になっている。
脚注
[編集]- ^ Brough (1962) p.49
- ^ Bailey, H. W. (1946). “Gāndhārī”. Bulletin of the School of Oriental and African Studies 11 (4): 764-797.
- ^ “The Oldest Surviving Substantial Collection of Buddhist Manuscripts: The Dead Sea Scrolls of Buddhism”. historyofinformation.com. 2014年11月7日閲覧。
- ^ Waldschmidt, Ernst. Bruchstücke buddhistischer Sutras aus dem zentralasiatischen Sanskritkanon. p. 231
- ^ Brough (1962) p.50
- ^ Brough (1962) p.52ff.
- ^ 漢訳は大正大蔵経に、それ以外は Brough (1962) p.159 による。
- ^ サンスクリット śara は通常「矢」を意味し、中村(1978)によるウダーナヴァルガの訳でも矢としているが、矢が手を切るというのは不自然なので、パーリ語のように「草」を意味するのかもしれない。『法集要頌経』沙門本第十一の対応箇所では「利剣」としているが、これも矢では意味が通じにくいので剣に変えたのかもしれない。
- ^ Brough (1962) pp.70-71
- ^ 厳密にいうと、sta はカローシュティー文字では専用の文字で書かれており、音価が本当に sta であるかどうかはわからない。
参考文献
[編集]- Brough, John (1962). The Gāndhārī Dharmapada. Oxford University Press
- ガンダーラ語の法句経の写真と全文・注釈、およびガンダーラ語の音韻・文法について
- 中村元『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫、1978年。ISBN 4003330218。
外部リンク
[編集]- GĀNDHĀRĪ LANGUAGE (Encyclopædia Iranica) - リチャード・サロモンによるガンダーラ語の概要
- Gāndhārī Language and Literature - ガンダーラ語の資料の一覧とそのローマ字翻字、ガンダーラ語関連論文一覧、検索可能なガンダーラ語辞典。
- The Gāndhārī Dharmapada (TITUS) - ガンダーラ語法句経全文