ガブリエラ・サバティーニ
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2012年のガブリエラ・サバティーニ | ||||||||||
基本情報 | ||||||||||
フルネーム | Gabriela Beatriz Sabatini | |||||||||
愛称 | ガビー | |||||||||
国籍 | アルゼンチン | |||||||||
出身地 | 同・ブエノスアイレス | |||||||||
生年月日 | 1970年5月16日(54歳) | |||||||||
身長 | 175cm | |||||||||
体重 | 59kg | |||||||||
利き手 | 右 | |||||||||
バックハンド | 片手打ち | |||||||||
殿堂入り | 2006年 | |||||||||
ツアー経歴 | ||||||||||
デビュー年 | 1985年 | |||||||||
引退年 | 1996年 | |||||||||
ツアー通算 | 40勝 | |||||||||
シングルス | 27勝 | |||||||||
ダブルス | 13勝 | |||||||||
生涯通算成績 | 884勝285敗 | |||||||||
シングルス | 632勝189敗 | |||||||||
ダブルス | 252勝96敗 | |||||||||
生涯獲得賞金 | $8,683,232 | |||||||||
4大大会最高成績・シングルス | ||||||||||
全豪 | ベスト4(1989・92-94) | |||||||||
全仏 |
ベスト4(1985・87・88・ 91・92) | |||||||||
全英 | 準優勝(1991) | |||||||||
全米 | 優勝(1990) | |||||||||
優勝回数 | 1(米1) | |||||||||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||||||||
全豪 | ベスト4(1989) | |||||||||
全仏 | 準優勝(1986・87・89) | |||||||||
全英 | 優勝(1988) | |||||||||
全米 | ベスト4(1986-89) | |||||||||
優勝回数 | 1(英1) | |||||||||
キャリア自己最高ランキング | ||||||||||
シングルス | 3位(1989年2月27日) | |||||||||
ダブルス | 3位(1988年7月4日) | |||||||||
獲得メダル | ||||||||||
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ガブリエラ・ベアトリス・サバティーニ(Gabriela Beatriz Sabatini、1970年5月16日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の元女子プロテニス選手。1990年の全米オープン女子シングルス優勝者である。
ボールに回転を多くかけた、重いトップスピン(順回転)のグラウンド・ストロークを得意にした選手だった。シングルス自己最高ランキングは3位。WTAツアーでシングルス27勝、ダブルス13勝を挙げた。
美貌と親しみやすい人柄で幅広い人気を持ち、「ガビー」(Gaby)の愛称で呼ばれていた。
経歴
[編集]サバティーニ姓はイタリア南部に起源を持つ。 1985年1月に14歳でプロ入り。その3か月後、いきなり「ヒルトンヘッド」大会でクリス・エバートとの決勝戦に勝ち進み、全仏オープンでエバートとの準決勝に進出した。同年10月に日本の「ジャパン・オープン」でプロ初優勝を果たす。それから4大大会でベスト4の常連になったが、勝負所で精神的な弱さが出て、決勝進出を逃すことが多かった。1988年の全米オープンで初の4大大会決勝進出を果たすが、ライバルのシュテフィ・グラフに競り負け、グラフの「年間グランドスラム」達成を目撃することになった。続くソウル五輪決勝でもグラフに敗れ、銀メダルに終わる。金メダルを獲得したグラフの偉業は「ゴールデン・スラム」と名づけられた。
2年後の1990年に、サバティーニは全米オープン決勝でグラフを 6-2, 7-6 のストレートで破り、宿願の4大大会初優勝を達成した。当時のコーチ、カルロス・キルメイヤーの手ほどきにより、積極的なネット・プレーが功を奏した勝利だった。それからライバルのグラフに5連勝したが、翌1991年のウィンブルドン選手権で3度目の4大大会決勝戦に進出した時、そのグラフに 4-6, 6-3, 6-8 の大激戦で競り負けた。これが結果的にサバティーニの最後の4大大会決勝戦となり、以後は再びベスト4止まりに逆戻りした。
グラフとはシングルスで「11勝29敗」の対戦成績を残し、彼女に10勝以上を挙げた唯一の選手として記録に残っている。またグラフとサバティーニはダブルスでパートナーも組み、1988年ウィンブルドンの女子ダブルス部門で優勝を飾った。
サバティーニはまた、1991年の「バージニア・スリムズ・オブ・ロサンゼルス」大会の準決勝をきっかけに、同じ年に当たる日本の伊達公子選手と対戦する機会も多くなった。1994年11月、伊達が日本人女子選手として初めてWTAツアー選手権(当時の名称は「バージニア・スリムズ選手権」)に出場資格を得た時、準決勝で彼女の前に立ちはだかったのはサバティーニだった。1995年3月の「リプトン国際選手権」準決勝では伊達が 1-6, 7-6, 7-6 の逆転勝利を収めている。
日本の試合ではプロ初優勝となった1985年のジャパン・オープンのほかに、「東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント」でも1987年・1991年・1992年の3度優勝を飾っている。
サバティーニのキャリアに陰りが見え始めたのは、1993年の全仏オープン準々決勝敗退の頃からである。この時サバティーニは若い頃から苦手意識の強かったメアリー・ジョー・フェルナンデス(アメリカ)に 6-1, 5-1 とリードしていたが、ここからフェルナンデスに追いつかれ、その結果 6-1, 6-7, 8-10 で大逆転負けを喫してしまう。サービスの改善がサバティーニの長年の課題であったが、なかなかうまくゆかず、挙げ句の果てに慢性の腹筋痛を抱えることになった。(テニスのサーブは、とりわけ腹筋にかかる負担が大きい。)1996年10月に26歳で現役引退を決断する。11月第3週にアメリカ・ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでWTAツアー選手権が開催された時、サバティーニと伊達公子の2人のために「引退式典」が開かれた。
現役選手時代にはファッションモデルとしても活躍し、自分のブランドの香水も発表している。
2006年7月15日、サバティーニはアルゼンチンのテニス選手としてギリェルモ・ビラス以来2人目の国際テニス殿堂入りを果たした。
4大大会優勝
[編集]年 | 大会 | 対戦相手 | 試合結果 |
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1990年 | 全米オープン | シュテフィ・グラフ | 6-2, 7-6 |
外部リンク
[編集]- ガブリエラ・サバティーニ - WTAツアーのプロフィール
- ガブリエラ・サバティーニ - ビリー・ジーン・キング・カップのプロフィール
- ガブリエラ・サバティーニ - 国際テニス連盟
- ガブリエラ・サバティーニ - Olympedia
- ガブリエラ・サバティーニ - 国際テニス殿堂のプロフィール