コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

カール・ヴィルヘルム (ナッサウ=ウージンゲン侯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カール・ヴィルヘルム
Karl Wilhelm
ナッサウ=ウージンゲン侯
在位 1775年 - 1803年

出生 (1735-11-09) 1735年11月9日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ナッサウ=ウージンゲン侯領、ウージンゲン
死去 (1803-05-17) 1803年5月17日(67歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ナッサウ=ウージンゲン侯領、ビープリッヒ
配偶者 カロリーネ・フェリツィタス・フォン・ライニンゲン=ダグスブルク=ハイデスハイム
子女 カール・ヴィルヘルム
カロリーネ・ポリクセネ
ルイーゼ・ヘンリエッテ
家名 ナッサウ家
父親 ナッサウ=ウージンゲン侯カール
母親 クリスティアーネ・ヴィルヘルミーネ・フォン・ザクセン=アイゼナハ
テンプレートを表示

カール・ヴィルヘルム(Karl Wilhelm, 1735年11月9日 - 1803年5月17日)は、ナッサウ=ウージンゲン侯(在位:1775年 - 1803年)、ナッサウ=ザールブリュッケン侯(在位:1797年 - 1803年)。

生涯

[編集]

カール・ヴィルヘルムは、ナッサウ=ウージンゲン侯カールと、ザクセン=アイゼナハヨハン・ヴィルヘルムの娘クリスティアーネ・ヴィルヘルミーネ・フォン・ザクセン=アイゼナハの長男である。1770年に歩兵中将となり、1775年に父の跡を継いでナッサウ=ウージンゲン侯となった。1789年に将軍となり、1790年にはワロン連隊の大佐となった。

1783年、ナッサウの結束を維持するために、ナッサウ=ザールブリュッケン、ナッサウ=ヴァイルブルク、ナッサウ=ディーツ(オラニエ=ナッサウ)とともにナッサウ家内協定(Nassauischer Erbverein)を結成し、長子のみが相続できるとした。ナッサウ=ザールブリュッケン侯ハインリヒ・ルートヴィヒ(1768年 - 1797年)の死後、カール・ヴィルヘルムはナッサウ=ザールブリュッケンを継承したが、侯領は1793年以降フランス革命軍に占領されていた。また、リュネヴィルの和約により、ライン川左岸の領土はフランスのものとなった。帝国代表者会議主要決議は、マインツ選帝侯、ケルン選帝侯、プファルツ選帝侯およびヘッセンの一部でそれを補償した。しかし、カール・ヴィルヘルムは同年に死去した。弟フリードリヒ・アウグストが侯位を継承した。

カール・ヴィルヘルムはフリーメイソンのメンバーであった[1]。1778年にビーブリッヒ城にヴィースバーデン・フリーメーソン・ロッジ・プラトを設立し、これは現在も続いている。

結婚と子女

[編集]

1760年4月16日、カール・ヴィルヘルムは、ライニンゲン=ダグスブルク=ハイデスハイム伯クリスティアン・カール・ラインハルトの娘カロリーネ・フェリツィタス(1734年5月22日 - 1810年5月8日)と結婚した。夫妻には以下の子女が生まれた。

脚注

[編集]
  1. ^ E. Lennhoff / O. Posner / D. A. Binder: Internationales Freimaurer Lexikon, Herbig, München 2006, p. 319

参考文献

[編集]
  • Ernst Joachim (1882). "Karl Wilhelm von Nassau-Usingen". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 15. Leipzig: Duncker & Humblot. p. 315.
先代
カール
ナッサウ=ウージンゲン侯
1775年 - 1803年
次代
フリードリヒ・アウグスト
先代
ハインリヒ・ルートヴィヒ
ナッサウ=ザールブリュッケン侯
1797年 - 1803年
次代