カール・ルートヴィヒ (アンハルト=ベルンブルク=シャウムブルク=ホイム侯)
カール・ルートヴィヒ Karl Ludwig | |
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アンハルト=ベルンブルク=シャウムブルク=ホイム侯 | |
在位 | 1772年 - 1806年 |
出生 |
1723年5月16日 神聖ローマ帝国 アンハルト=ベルンブルク=シャウムブルク=ホイム侯領、シャウムブルク城 |
死去 |
1806年8月20日(83歳没) 神聖ローマ帝国 アンハルト=ベルンブルク=シャウムブルク=ホイム侯領、シャウムブルク城 |
配偶者 | ベニアミーネ・ゲルトルート・カイザー |
エレオノーレ・ツー・ゾルムス=ブラウンフェルス | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | アスカーニエン家 |
父親 | アンハルト=ベルンブルク=シャウムブルク=ホイム侯ヴィクトル1世 |
母親 | シャルロッテ・ルイーゼ・ツー・イーゼンブルク=ビューディンゲン=ビルシュタイン |
カール・ルートヴィヒ(Karl Ludwig von Anhalt-Bernburg-Schaumburg-Hoym, 1723年5月16日 - 1806年8月20日)は、ドイツのアンハルト=ベルンブルク=シャウムブルク=ホイム侯。オランダ共和国軍の将軍。
生涯
[編集]アンハルト=ベルンブルク=シャウムブルク=ホイム侯ヴィクトル1世とその最初の妻でイーゼンブルク=ビューディンゲン=ビルシュタイン伯ヴィルヘルム・モーリッツの娘であるシャルロッテ・ルイーゼ(1680年 - 1739年)の間の息子として生まれた。非常に若くしてオランダ軍に入隊し、ステフェンスヴェールト(現オランダ領リンブルフ州マースガウ)に駐屯した。この町でオランダ軍の要塞勤務の少佐(Platzmajor)の娘ベニアミーネ・ゲルトルート・カイザー(1729年 - 1787年)と知り合い、1748年3月25日から26日にかけての真夜中に、両親の許可も得ず彼女と秘密裏に結婚式を挙げた。司式をした牧師はこの件で罪に問われた際、ヴィクトル1世に宛てた書状で次のように弁解した。すなわち、婚礼の招待客はカイザー家側の者ばかりで、牧師の理解できないフランス語しか話さず、婚礼は父侯爵の同意を得て行っているものと信じていた、と。結婚生活はすぐに破綻し、カール・ルートヴィヒは1749年には妻を捨てて家を出ている。このため離婚訴訟に発展し、1757年に婚姻無効が宣言された。
カール・ルートヴィヒはその後オランダ軍で昇進し、歩兵軍の陸軍中将及びティールの軍司令官となった。また、プロテスタント系ドイツ騎士団のレーネン支部の支部長(コムトゥル)の役職にも就いた。1772年父の死後に侯家当主となり、後に皇帝軍に仕えた。
結婚と子女
[編集]最初の妻となったベニアミーネ・ゲルトルート・カイザーとの間に娘1人をもうけた。
- ヴィクトリア・ヘートヴィヒ・カロリーネ(1749年 - 1841年) - 1776年トマ・ド・マイ・ド・ファヴラ侯爵と結婚
1765年12月12日ブラウンフェルスで、ゾルムス=ブラウンフェルス侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの娘エレオノーレ(1734年 - 1811年)と再婚し、間に5人の子をもうけた。
- ヴィクトル・カール・フリードリヒ(1767年 - 1812年) - アンハルト=ベルンブルク=シャウムブルク=ホイム侯
- ヴィルヘルム・ルートヴィヒ(1771年 - 1799年) - 第1次シュトッカッハの戦いで戦死
- アレクシウス・クレメンス(1772年 - 1776年)
- ゾフィー・シャルロッテ(1773年 - 1774年)
- カロリーネ・ウルリーケ(1775年 - 1782年)
参考文献
[編集]- Christian von Stramburg, Anton Joseph Weidenbach: Denkwürdiger und nützlicher rheinischer Antiquarius ..., Teil 2, Band 3, S. 308 ff. Volltext
- Ferdinand Siebigk: Das Herzogthum Anhalt, Dessau 1867, S. 243
- Philipp Ernst Bertram, Johann Christoph Krause: Geschichte des Hauses und Fürstenthums Anhalt, Band 2, Curt, 1782 S. 644
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