コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

カール・フォン・メック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カール・フォン・メック (撮影時期不明)

カール・オットー・ゲオルク・フォン・メックКарл Фёдорович фон Меккラテン文字表記の例Karl Otto Georg von Meck1821年6月22日1876年1月26日)は、バルト・ドイツ人の実業家。ロシア帝国鉄道の源流となる鉄道の創設者の一人。作曲家チャイコフスキーパトロンとして知られるフォン・メック夫人の夫。

生涯

[編集]

シレジアにルーツを持つバルト・ドイツ人貴族の家系出身。父親オットー・アダム・フォン・メック(Otto Adam von Meck、1790年 - 1830年)少佐はリガの税関吏。母親ヴィルヘルミーネ・ハッフェルベルク(Wilhelmine Hafferberg、1802年生)はフリードリヒ・ヴィルヘルム(Friedrich Wilhelm Hafferberg、1765年 - 1801年)とキャサリン・コンスタンツェ・ノット(Catharine Constanze Nott、1779年 - 1841年)夫妻の娘であり、キャサリン・コンスタンツェの再婚相手は作曲家フランツ・アダム・ファイヒトナー英語版の息子カール・ルートヴィヒ・フォン・ファイヒトナー(Carl Ludwig von Veichtner、1772年 - 1831年)。

フォン・メックは、1844年サンクトペテルブルク交通大学を卒業後、モスクワワルシャワ間の道路整備プロジェクトに技術者として関わる。1860年、カールは公職を辞して事業家へと転じる。クリミア戦争での敗北により鉄道輸送の重要性が論じられるなか、モスクワ~サラトフ間を結ぶ私鉄建設を目指すサラトフ鉄道協会(Saratov Railway Association)に参画する。同鉄道のプロジェクト第一段階のモスクワ~コロムナ間は開通したものの、その後同プロジェクトは資金難により挫折した。

フォン・メックは1863年にモスクワ~リャザン間の鉄道建設プロジェクトに参画し、成功を収める。フォン・メックはその後もさまざまな鉄道建設に関わったものの、モスクワ~リャザン間路線を超える成功はなかった。1876年、モスクワにて死没。

家族

[編集]

夫の死後、未亡人ナジェジダ夫人は翌1877年から14年間にわたって作曲家チャイコフスキーに経済的な援助をおこなった。夫妻の息子ニコライ・フォン・メック英語版はロシアにおける鉄道敷設に大いに尽力したが、ボリシェヴィキ革命後も職務にあたったが、ブルジョア階級出身だったことから1928年統合国家政治局(OGPU)により逮捕され、翌1929年見せしめ裁判英語版によって死刑が宣告され、処刑された。

参考文献

[編集]
  • Гавлин М. Л. Династия «железнодорожных королей» фон Мекк
  • Solzhenitsyn, Aleksandr I., The Gulag Archipelago (1973), pp. 44–45 (1st ed.). Harper & Row. ISBN 0-06-080332-0.