カール・フォン・メック
カール・オットー・ゲオルク・フォン・メック(露:Карл Фёдорович фон Мекк;ラテン文字表記の例:Karl Otto Georg von Meck、1821年6月22日 – 1876年1月26日)は、バルト・ドイツ人の実業家。ロシア帝国鉄道の源流となる鉄道の創設者の一人。作曲家チャイコフスキーのパトロンとして知られるフォン・メック夫人の夫。
生涯
[編集]シレジアにルーツを持つバルト・ドイツ人貴族の家系出身。父親オットー・アダム・フォン・メック(Otto Adam von Meck、1790年 - 1830年)少佐はリガの税関吏。母親ヴィルヘルミーネ・ハッフェルベルク(Wilhelmine Hafferberg、1802年生)はフリードリヒ・ヴィルヘルム(Friedrich Wilhelm Hafferberg、1765年 - 1801年)とキャサリン・コンスタンツェ・ノット(Catharine Constanze Nott、1779年 - 1841年)夫妻の娘であり、キャサリン・コンスタンツェの再婚相手は作曲家フランツ・アダム・ファイヒトナーの息子カール・ルートヴィヒ・フォン・ファイヒトナー(Carl Ludwig von Veichtner、1772年 - 1831年)。
フォン・メックは、1844年にサンクトペテルブルク交通大学を卒業後、モスクワ~ワルシャワ間の道路整備プロジェクトに技術者として関わる。1860年、カールは公職を辞して事業家へと転じる。クリミア戦争での敗北により鉄道輸送の重要性が論じられるなか、モスクワ~サラトフ間を結ぶ私鉄建設を目指すサラトフ鉄道協会(Saratov Railway Association)に参画する。同鉄道のプロジェクト第一段階のモスクワ~コロムナ間は開通したものの、その後同プロジェクトは資金難により挫折した。
フォン・メックは1863年にモスクワ~リャザン間の鉄道建設プロジェクトに参画し、成功を収める。フォン・メックはその後もさまざまな鉄道建設に関わったものの、モスクワ~リャザン間路線を超える成功はなかった。1876年、モスクワにて死没。
家族
[編集]夫の死後、未亡人ナジェジダ夫人は翌1877年から14年間にわたって作曲家チャイコフスキーに経済的な援助をおこなった。夫妻の息子ニコライ・フォン・メックはロシアにおける鉄道敷設に大いに尽力したが、ボリシェヴィキ革命後も職務にあたったが、ブルジョア階級出身だったことから1928年に統合国家政治局(OGPU)により逮捕され、翌1929年に見せしめ裁判によって死刑が宣告され、処刑された。
参考文献
[編集]- Гавлин М. Л. Династия «железнодорожных королей» фон Мекк
- Solzhenitsyn, Aleksandr I., The Gulag Archipelago (1973), pp. 44–45 (1st ed.). Harper & Row. ISBN 0-06-080332-0.