カール・ツー・ライニンゲン (1898-1946)
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カール・ツー・ライニンゲン Karl zu Leiningen | |
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ライニンゲン家家長 | |
在位 | 1939年 - 1946年 |
出生 |
1898年2月13日 ドイツ帝国 ライヒ直轄州エルザス=ロートリンゲン シュトラスブルク |
死去 |
1946年8月2日(48歳没) ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 サランスク |
配偶者 | マリヤ・キリロヴナ |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ライニンゲン家 |
父親 | ライニンゲン侯エミッヒ |
母親 | フェオドラ・ツー・ホーエンローエ=ランゲンブルク |
フリードリヒ・カール・エドゥアルト・エルヴィン・ツー・ライニンゲン(ドイツ語: Friedrich Karl Eduard Erwin Fürst zu Leiningen, 1898年2月13日 - 1946年8月2日)は、 ドイツの旧諸侯・シュタンデスヘルのライニンゲン侯家の当主。1939年の家督継承後、一族の伝統に則り「ライニンゲン侯」を自称した。
生涯
[編集]ライニンゲン侯エミッヒとその妻のホーエンローエ=ランゲンブルク侯女フェオドラの間の次男[1]。父方のライニンゲン=ダークスブルク=ハルテンブルク家(Leiningen-Dagsburg-Hartenburg)は代々福音派信徒であった。曾祖母のバーデン大公妃ソフィアがホルシュタイン=ゴットルプ家出身のため、ライニンゲン侯家は潜在的なスウェーデン王位請求権を保持していると見なされた。第二次世界大戦中はドイツ海軍所属の海軍少佐(コルヴェッテンカピテン)として従軍した。大戦後はロシア・サランスクの捕虜収容所に抑留され、餓死したとされる。
子女
[編集]1925年11月25日コーブルクにて、ロシア帝室家長を名乗るキリル・ウラジーミロヴィチ大公の長女マリヤ・キリロヴナと結婚した。夫婦は三又従兄妹の間柄だった。2人は死別するまでに6人の子をもうけている。
- エミッヒ・キリル・フェルディナント・ヘルマン(1926年 - 1991年) - ライニンゲン侯家家長、1950年オルデンブルク大公女アイリーカと結婚
- カール・ヴラディーミル・エルンスト・ハインリヒ(1928年 - 1990年) - 1957年ブルガリア王女マリヤ・ルイザと結婚(1968年離婚)
- キーラ・メリタ・フェオドラ・マリー・ヴィクトリア・アレクサンドラ(1930年 - 2005年) - 1963年ユーゴスラビア王子アンドレイと結婚(1972年離婚)
- マルガリータ・イレアナ・ヴィクトリア・アレクサンドラ(1932年 - 1996年) - 1951年、ホーエンツォレルン侯フリードリヒ・ヴィルヘルムと結婚
- メヒティルデ・アレクサンドラ(1936年 - ) - 1961年、カール・アントン・バウシャーと結婚
- フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベルトルト(1938年 - 1998年) - 1960年カリン=エヴェリン・ゲースと結婚(1962年離婚)、1971年ヘルガ・エッシェンバッヒャーと再婚
- ペーター・ヴィクトル(1942年 - 1943年)
参考文献
[編集]- Thomas Gehrlein: Das Haus Leiningen. 900 Jahre Gesamtgeschichte mit Stammfolgen. Deutsche Fürstenhäuser. Heft 32. Börde Verlag, Werl 2011, ISBN 978-3-9811993-9-0.
引用
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