カール・ショルン
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カール・ショルン Karl Schorn | |
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カール・フォン・ピロティの原画による作者不詳の版画 | |
生誕 |
1800年10月16日 ドイツ、デュッセルドルフ |
死没 |
1850年10月7日 (49歳没) ドイツ、ミュンヘン |
カール・ショルン(Karl Lambert Schorn、1800年10月16日[1] - 1850年10月7日)は、ドイツの画家である。歴史画を描き、ベルリンやミュンヘンで働いた。チェスの名手としても知られていた。
略歴
[編集]デュッセルドルフで生まれた。叔父に美術史家で、ミュンヘン大学やミュンヘン美術院の教授を務めたルートヴィヒ・フォン・ショルン(Ludwig von Schorn: 1793-1842)がいる。
デュッセルドルフ美術アカデミーで学んだ後、1824年から1827年の間はパリに出て、アントワーヌ=ジャン・グロやドミニク・アングルのもとで学んだ。その後ミュンヘンに移り、ペーター・フォン・コルネリウスに学び、ハインリヒ・マリア・フォン・ヘスに学んだ。
1832年にベルリンに移り、歴史画を描いた。1830年代後半のベルリンでチェスの名手として知られるようになり、ショルンらの7人のチェスの名人は「ベルリンの七星(Berliner Siebengestirn)や「ベルリンのプレアデス」と呼ばれた。
イタリアに修行にでて1841年11月までローマに滞在した後[2]、ミュンヘン呼ばれ、バイエルン王ルートヴィヒ1世の注文で歴史画を描き、1847年にはミュンヘン美術院の教授に任じられた。
後にミュンヘン美術院の教授となる、カール・フォン・ピロティ(1826-1886)の姉と結婚し、義理の弟となったカール・フォン・ピロティとフェルディナント・ピロティ2世(Ferdinand Piloty der Jüngere: 1828-1895)に影響を与えたとされる。
1850年にミュンヘンで亡くなった。
脚注
[編集]- ^ Geburtsjahr laut Mario Ziegler: „Durch und durch ein Humorist im Schachspiel.“ Das Leben des Malers und Schachspielers Karl Schorn. In: KARL, 4/2014, S. 46–49, unter Bezugnahme auf die Taufurkunde der Kirche St. Lambertus im Stadtarchiv Düsseldorf.1802年または1803年生まれとする資料もある。
- ^ Friedrich Noack: Das Deutschtum in Rom seit dem Ausgang des Mittelalters. Deutsche Verlags-Anstalt, Stuttgart 1927, Band 2, S. 536.
参考文献
[編集]- Hyacinth Holland: Schorn, Karl. In: Allgemeine Deutsche Biographie (ADB). Band 32, Duncker & Humblot, Leipzig 1891, S. 382–384.
- Mario Ziegler: „Durch und durch ein Humorist im Schachspiel.“ Das Leben des Malers und Schachspielers Karl Schorn. In: KARL, 4/2014, S. 46–49.
- Stéphanie Baumewerd: Schorn, Karl. In: Bénédicte Savoy, France Nerlich (Hrsg.): Pariser Lehrjahre. Ein Lexikon zur Ausbildung deutscher Maler in der französischen Hauptstadt. Band 1: 1793–1843. De Gruyter, Berlin/Boston 2013, ISBN 978-3-11-029057-8, S. 262–264.