カールサー
カールサー(パンジャーブ語: ਖ਼ਾਲਸਾ IPA: [ˈkʰaːlsaː]、英語: Khalsa)は、シク教の信徒集団。軍事組織でもあった。「カールサー」という名称は、アラビア語の「純粋な」という意味の言葉に由来する。時を経て、「シク」と「カールサー」は同義語のようになり、正式にカールサーのメンバーになるのは少数であるにもかかわらず、信徒たちは彼らの宗教儀礼や祈祷、名前、人となりを模範としているとも言われる[1]。
歴史
[編集]1699年3月3日、シク教のグル・ゴービンド・シングによって、シク教の軍事組織として結成された。この時、ゴーヴィンド・シングは、メンバーに、毛髪を剃らないこと、櫛、鉄製の腕輪、剣、短いズボンという五つのシンボルを身に着けることを命じ、「シング」(ライオンの意味)の名前を与えた。
その後、1708年にゴーヴィンド・シングが暗殺され、グルが途絶えたが、カールサーは存続した。カールサーは、結成からの1世紀をほぼ、ムガル帝国、そしてアフガン人との戦いに費やした[2]。
そして、1801年にランジート・シングがシク王国を樹立すると、カールサーはシク王国の軍隊の一つとなった。
1839年にランジート・シングが死ぬと、王国で内乱が生じ、最終的にドゥリープ・シングが王位を継承した。だが、一連の内乱でカールサーが台頭し、王国の実権を握った。[3]
カールサーは愛国的で勇敢であったが、全く統制のとれていない軍隊であった。[3]そのため、彼らはイギリスの挑発に乗り、シク戦争を招いてしまった。
キリスト教の宣教師がパンジャーブ地方で活動するようになったことをきっかけに、19世紀後半から復古主義的な宗教改革運動が次々と現れるようになるが、その中でカールサーの伝統と規範を強調しながら、シク教徒の統一を図る主張が主流となっていった[4]。こうした主張を展開したグループは、「タト・カールサー」と呼ばれる純粋なシク教への回帰を訴え、ほかの宗教の神や聖人、シンボルを崇拝したり、本来シク教になかった儀礼や慣習を行ったりすることを強く非難した[4]。
脚注
[編集]- ^ Nikky-Guninder Kaur Singh (2012). The Birth of the Khalsa : A Feminist Re-Memory of Sikh Identity. State University of New York Press. p. xi. ISBN 978-0-7914-8266-7
- ^ Edited by Pashaura Singh, Louis E. Fenech (2014). The Oxford Handbook of Sikh Study. Oxford University Press
- ^ a b チョプラ『インド史』、p.171
- ^ a b 井坂理穂「<研究ノート>近現代インドの政治・社会変容とスィク・アイデンティティ」『現代インド研究』第3巻、人間文化研究機構地域研究推進事業「現代インド地域研究」、2013年2月、171-189頁、CRID 1390853649769792640、doi:10.14989/173741、hdl:2433/173741、ISSN 2185-9833。
参考文献
[編集]- P.N.チョプラ(Chopra Pran Nath), 三浦愛明, 鷲見東観『インド史』法藏館、1994年。ISBN 483188099X。NDLJP:13164396 。「原タイトル: Main currents of Indian history」