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カロリーナ・ディ・ボルボーネ=パルマ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カロリーナ
Carolina
ボルボーネ=パルマ家
カロリーナの肖像画(アントン・グラフ画、1792年)

全名
出生 (1770-11-22) 1770年11月22日
パルマ公国パルマ
死去 (1804-03-01) 1804年3月1日(33歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領ドレスデン
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領ドレスデン大聖堂
配偶者 マクシミリアン・フォン・ザクセン
子女
父親 パルマ公フェルディナンド1世
母親 マリア・アマーリア・ダズブルゴ
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カロリーナ・ディ・ボルボーネ=パルマCarolina di Borbone-Parma, 1770年11月22日 - 1804年3月1日)は、パルマ公フェルディナンドとその妻のオーストリア大公女マリア・アマーリアの間の長女で、1792年にザクセン公子(のちザクセン王太子)マクシミリアンに嫁いだ。

生涯

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カロリーナはパルマ公フェルディナンド1世とオーストリア大公女マリア・アマーリア夫妻の第1子として生まれた。洗礼名の全名はカロリーナ・マリーア・テレーザ・ジュゼッパ・ジョヴァンナ(Carolina Maria Teresa Giuseppa Giovanna[1]代父母である父方の大叔父スペイン王カルロス3世と母方の祖母マリア・テレジアに因んで名付けられた。

1774年、パルマに母方の叔母マリア・クリスティーナが訪問してきた時には彼女に、美しいが陰気な子どもだと言われた[2]

カロリーナと弟のルドヴィーコは彼らの両親のお気に入りだった。幼い子ども達は実際には父母よりも宗教に大きな関心を持っていたにもかかわらず、父から宗教の個人講義を受けた[2]。1778年、弟のルドヴィーコはカロリーナと一緒に遊んでいる間に、大理石のテーブルで自分の頭を打ち、その後はてんかんに苦しんだ[2]

母マリア・アマーリアはカロリーナの思う以上にドイツの王公と結婚する事を望んだ。伝えられるところによると、カロリーナに縁談話は用意されなかった[2]。その代わり、母はザクセン公子マクシミリアンがたびたびイタリアに旅行に来る間にカロリーナと引き合わせた。そして1780年代後半にパルマ公家がザクセンを訪問した際、カロリーナはマクシミリアンと一緒に時間を過ごす事が出来て、彼と恋に落ちたと言う[2]。この結果、カロリーナは彼と結婚する事を強く望んでいると話した。母マリア・アマーリアはマクシミリアンが王位継承者ではないという事実にもかかわらず(この時は王太子ですらなかった)、結婚の許可を与えた。

ザクセンでのカロリーナの結婚生活は幸福で仲睦まじいものと伝わっている[2]。1804年、母がプラハに移った時、カロリーナが亡くなる前に母は訪ねる事が出来なかったが、2人はより頻繁に連絡を取ることが出来た。

1804年3月1日、ドレスデンで熱病により亡くなった。夫のマクシミリアンは20年以上経ったのち、カロリーナの姪のマリーア・ルイーザ・カルロッタ英語版(ルドヴィーコの娘)と再婚した。

結婚と子女

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ザクセン選帝侯フリードリヒ・クリスティアンの末息子であるマクシミリアンと1792年4月22日にパルマで代理人によって、5月9日に本人同士で結婚した。 夫妻は間に8人の子女をもうけた。

系譜

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脚注

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  1. ^ Stanga, Idelfonso (1932). Maria Amalia di Borbone duchessa di Parma 1746-1804 
  2. ^ a b c d e f Justin C. Vovk: In Destiny's Hands: Five Tragic Rulers, Children of Maria Theresa (2010)