カタリーナ・フォン・クレーフェ
カタリーナ・フォン・クレーフェ Katharina von Kleve | |
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聖母子の前でひざまずくカタリーナ・フォン・クレーフェ。カタリーナの紋章が夫ゲルデルン公アルノルトの紋章とともに中央下に描かれている。また、カタリーナの祖先の紋章が四隅に配置されている。 | |
出生 |
1417年5月25日 |
死去 |
1479年2月10日(61歳没) |
配偶者 | ゲルデルン公アルノルト・ファン・エフモント |
子女 |
マリア ウィレム マルハレータ アドルフ カタリーナ |
家名 | マルク家 |
父親 | クレーフェ=マルク公アドルフ1世 |
母親 | マリー・ド・ブルゴーニュ |
カタリーナ・フォン・クレーフェ(Katharina von Kleve, 1417年5月25日 - 1479年2月10日)は、ゲルデルン公アルノルト・ファン・エフモントの妃。1450年、夫の不在中にゲルデルンの摂政をつとめた。『カタリーナ・フォン・クレーフェの時祷書』は、カタリーナのために作成された。
生涯
[編集]カタリーナはクレーフェ=マルク公アドルフ1世とマリー・ド・ブルゴーニュの娘である[1]。ブルゴーニュ公フィリップ3世の姪にあたる[2]。
結婚と摂政
[編集]カタリーナは1430年に結婚していたにもかかわらず、1431年まで両親と一緒に暮らしていた。カタリーナは夫が不信感を抱いていたブルゴーニュ公フィリップ3世と緊密な関係を持っており、娘マリアをブルゴーニュの宮廷で育てた。夫アルノルトがドリエルを処罰したとき、アルノルトは公国での支持を失ったが、カタリーナは夫と領地との間の仲介者としての役割を果たした。1450年、アルノルトはローマおよびパレスチナへ巡礼に出かけ、その不在の間、カタリーナは摂政を務めた[3]。
カタリーナは息子アドルフがアルノルトから公位を継承した時に支援した。アドルフがブルゴーニュにとって信頼できない人物であることが明らかとなった際には、ブルゴーニュ公シャルルは1470年にアドルフを捕らえさせた[3]。カタリーナは晩年をロビトで過ごし、1479年にそこで亡くなった。
時祷書
[編集]『カタリーナ・フォン・クレーフェの時祷書』は、1430年1月26日にカタリーナがゲルデルン公アルノルトと結婚した際に、カタリーナのために作成された。この作品には、カタリーナの系譜と、祈りを捧げるカタリーナ自身が描かれている。この時祷書は1856年に表に出るまで400年間行方不明であった。現存するこの種の本の中で、最も豪華な装飾が施された本の1つである。
子女
[編集]- マリア(1431年頃 - 1463年)[4] - 1449年、スコットランド王ジェームズ2世と結婚
- ウィレム(1434年) - 早世
- マルハレータ(1436年 - 1486年) - 1454年、プファルツ=ジンメルン公フリードリヒ1世と結婚
- アドルフ(1438年 - 1477年) - ゲルデルン公
- カタリーナ(1439年 - 1496年) - ゲルデルン公領摂政(1477年 - 1481年)
脚注
[編集]- ^ Blockmans & Prevenier 1999, p. 110.
- ^ Marshall 2003, p. 57.
- ^ a b Kloek 2013, p. 71.
- ^ Downie 2006, p. 67.
参考文献
[編集]- Blockmans, Wim; Prevenier, Walter (1999). Peters, Edward. ed. The Low Countries Under Burgundian Rule, 1369-1530. University of Pennsylvania Press
- Downie, Fiona (2006). She is But a Woman: Queenship in Scotland, 1424-1463. John Donald
- Kloek, Els (2013). 1001 Vrouwen uit de Nederlandse Geschiedenis. Vantilt
- Marshall, Rosalind K. (2003). Scottish Queens, 1034-1714. Tuckwell Press