オーギュスト・ジャン=ガブリエル・ド・コランクール
オーギュスト・ジャン=ガブリエル・ド・コランクール Auguste Jean-Gabriel de Caulaincourt | |
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(アンブロワーズ・タルデュー画、1818年) | |
生誕 |
1777年9月16日 フランス王国、エーヌ県、コーランクール |
死没 |
1812年9月7日 ロシア帝国、ボロジノ |
所属組織 | フランス軍 |
軍歴 | 1792年〜1812年 |
最終階級 | 師団将軍 |
オーギュスト・ジャン=ガブリエル・ド・コランクール(仏: Auguste Jean-Gabriel de Caulaincourt、1777年9月16日 - 1812年9月7日)は、フランス革命戦争、ナポレオン戦争期の騎兵指揮官。最終階級は師団将軍。ボロジノの戦いにおける伝説的な武功で知られる。実兄にナポレオンの側近として活躍したアルマン・ド・コランクールがいる。
生涯
[編集]コランクールは1777年、コランクールに生まれ、1792年に兄の後を追って軍に入隊した。そして、次々と軍功を立て1794年には少尉にまで登り詰めた。
1795年にバイェ将軍の副官となり、竜騎兵部隊を率いて、ライン方面で活躍した。その後、スイス方面軍のマッセナ将軍配下となり、1799年の第二次チューリッヒ戦争に参戦した。一連の活躍により、分隊長に昇進した。[1]
1804年、コランクールはルイ・ボナパルトの将官付き副官に任命され、竜騎兵連隊長に昇進し、1805年のアウステルリッツの戦いに参戦した。
翌年の1806年からは再びルイの副官として活躍した。ルイはこの時オランダ王となっていた。
1808年、コランクールは旅団長に任命され、男爵位を授与された。
同年に勃発した半島戦争では竜騎兵旅団を率いて7月3日にクエンカを占領した。その後、ゲリラ部隊を次々と鎮圧した。一連の活躍で師団長に昇進し、スペイン方面軍の竜騎兵連隊の統括を担った。
1810年にフランスに召還され、ロシア遠征軍に編入された。
2年後の1812年、ボロジノの戦いが勃発した。コランクールはこの戦いで戦況を左右する決定的な働きをしたが、それと引き換えに自らの命を失った。
ボロジノでの活躍
[編集]コランクールはボロジノの戦いで、「堡塁を騎兵で制圧する。」という偉業を打ち立てた。これは前代未聞の出来事であった。[2]
戦いの様子は以下の通りである。
ボロジノの戦いで、コランクールは突撃中に戦死したモンブラン将軍の重騎兵師団を引き継いだ。ミュラ元帥は彼に「角面堡を重騎兵で制圧せよ」と命令を下した。コランクールは意気消沈している味方[3]を大喝し、士気を一気に上げると、そのままロシア歩兵の大軍に向かって正面突撃を仕掛けた。ロシア歩兵は次々と切り倒され、ついに退却を始めた。その後、急いで馬首を繰って角面堡の背後に回り、間髪入れずに守備隊を猛襲した。守備隊はこの「通説を覆す」騎兵突撃に大いに動揺したものの、陣形を崩さず一斉射撃を行った。この時に先頭を駆っていたコランクールは戦死した。しかし、もはや守備隊には彼らを止める術が無かった。重騎兵隊はついに守備隊を壊滅させ、後続の胸甲騎兵部隊と共に角面堡を占領した。さらにウジェーヌ公の歩兵師団が増援として送り込まれ、勝負は決定的となった。この活躍により今までロシア優勢だった戦況は一時的に大きくフランス側に傾いた。
戦後、ナポレオンはこの活躍に対し、
「コランクール将軍は騎兵隊の先頭に立ち、あらゆるものを打ち倒し、角面堡の内部に侵入するという離れ業をやってのけた!その瞬間に我が軍の勝利は確定したのだ!」(公報内での記述)
と絶賛した[2]。
脚注
[編集]- ^ Fierro, Alfredo; Palluel-Guillard, André; Tulard, Jean - "Histoire et Dictionnaire du Consulat et de l'Empire”, Éditions Robert Laffont, ISBN 2-221-05858-5, p. 600.
- ^ a b 戦闘技術の歴史、2013年、pp.146-156
- ^ モンブラン将軍の死による。