オレクサンドル・ムラシュコ
オレクサンドル・ムラシュコ Oleksandr Murashko | |
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自画像 | |
生誕 |
1875年9月7日 ウクライナ,キーウ |
死没 |
1919年6月14日 ウクライナ,キーウ |
オレクサンドル・ムラシュコ(Oleksandr Oleksandrovych Murashko、ウクライナ語:Олександр Олександрович Мурашко 、アレキサンドル・ムラシュコ、Alexander Murashko または Aleksandr Murashko とも、1875年9月7日 – 1919年6月14日)はウクライナの画家である。
略歴
[編集]キーウで婚外子として生まれ、祖母に育てられた。母親がチェルニーヒウのイコン画家と結婚し、チェルニーヒウに移り、1880年代の終わりに義理の父親がキーウの聖ヴォロディームィル大聖堂での仕事を得たので、家族とキーウに戻った。15歳になった時、義理の父親と対立し、実家をでた。絵画学校を営む父親の兄弟のニコライ・ムラシュコ(Nikolay Murashko)から支援を受けた。1894年からサンクトペテルブルクの帝国美術アカデミーでイリヤ・レーピンに学んだ。1901年から1903年の間、パリやミュンヘンで学び、ミュンヘンではアントン・アズベに学んだ。この頃から印象派のスタイルで描くようになった。
1904年にサンクトペテルブルクに戻った。ミュンヘンの国際展覧会に出展した作品が金賞を受賞し、ベルリンやウィーンの展覧会に招かれるようになった。1907年からキーウに戻った。
1911年にミュンヘン分離派の展覧会に出展した。1913年にキーウにスタジオを開いた。
第一次世界大戦の後、ウクライナが独立すると1817年にキーウの美術アカデミーの設立メンバーの一人となり、1918年にウクライナ人民共和国の教育のための諮問委員会の委員となったが、1919年に悪化した治安のなかで強盗の被害に遭い殺害された[1]。43歳であった。
作品
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赤い帽子をかぶった少女 (1902/1903)
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受胎告知 (1909)
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洗濯する女(1914)
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花を持つ女性 (1918)
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コサック軍の長官の葬列(1900)
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池のほとりで (1913)
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花屋 (1917)
外部リンク
[編集]関連項目
[編集]参考文献
[編集]- «Эти десять лет большого, глубокого счастья...» : Спогади Маргарити Мурашко / Авт. ст. та ком. Дар’я Добріян; укл. Віталій Ткачук. — К. : ArtHuss, 2016. — 168 с. : іл.
- Олександр Мурашко. Альбом. (автор-упорядник Членова Л. Г.), К.: «Мистецтво», 1980
脚注
[編集]- ^ (uk:Мурашко Олександр Олександрович)にはチェーカーのエージェントによるものと記されている