オルジェイトゥ (キプチャク部)
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オルジェイトゥ・バートル(モンゴル語: Ölǰeitü baγatur,中国語: 完者都抜都、? - 1298年)とは、キプチャク部出身で、13世紀末に大元ウルスに仕えた人物。『元史』などの漢文史料では完者都抜都(wánzhĕdōubádōu)と記される。
名称
[編集]オルジェイトゥはキプチャク草原に住まうキプチャク人の出で、父のカラ・ホージャ(哈剌火者)はモンケがキプチャク草原・カフカース方面に進出した時に帰参した人物であった。オルジェイトゥは腹にまで届く長髯の持ち主で、文武両道で正義感の強い人物であったという[1]。
1256年(丙辰)よりオルジェイトゥはクビライを総司令とする南宋遠征軍に従軍し、1259年(己未)に皇帝モンケ急死の中で起こった鄂州の戦いでは真っ先に登城する功績を挙げた。その後、中統3年(1262年)には諸王カビチの下で李璮の乱鎮圧に貢献し、至元元年(1264年)にはカビチの口添えもあってクビライから特別に恩賜がなされた[2]。
至元4年(1267年)より南宋遠征に従軍し、襄陽・樊城の戦いではアジュの指揮下に入り水・陸両面の戦いで功績を挙げた。南宋の平定後、オルジェイトゥの武功を賞して「バートル」の称号が与えられ、懐遠大将軍・高郵路総管府ダルガチとされた[3][4]。
大徳2年(1298年)11月、59歳で亡くなった。息子が14人、孫が24人いたという[5][6]。
なお、『元史』巻131列伝18完者都伝と『元史』巻133列伝20完者都抜都伝は同一人物(オルジェイトゥ・バートル)の列伝を重複して載せてしまったものである[7]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻131列伝18完者都伝,「完者都、欽察人。父哈剌火者、従憲宗征討有功。完者都広顙豊頷、髯長過腹、為人驍勇、而楽善好施、聽読史書、聞忠良則喜、遇奸諛則怒」『元史』巻133列伝20完者都抜都伝,「完者都抜都、欽察氏、其先彰徳人。以才武従軍」
- ^ 『元史』巻131列伝18完者都伝,「歳丙辰、以材武従軍。己未、従攻鄂州、先登、賞銀五十両。中統三年、従諸王合必赤討李璮於済南、凡両戦、皆有功。至元元年、合必赤因枢密臣以其武勇聞、帝特賞賜之」『元史』巻133列伝20完者都抜都伝,「歳己未、従世祖攻鄂州、登城斬馘、賞銀五十両。中統三年、従諸王合必赤征李璮於済南、力戦有功」
- ^ 『元史』巻131列伝18完者都伝,「四年十月、従万戸木花里略地荊南、還至襄陽西安陽灘、遇宋軍、敗之。既而従丞相阿朮囲襄樊、水陸大戦者四、皆有功。嘗梯樊城、焚楼櫓、勇敢出諸軍右、幕府上其功。十一年、授武略将軍、為彰徳南京新軍千戸。九月、従丞相伯顔南征。十一月、攻沙洋・新城。始授金符、領丞相帳前合必赤軍。十二月、統舟師由沙蕪口渡江。十二年春、与宋将孫虎臣戦於丁家洲、大捷、進武義将軍。攻泰州、戦揚子橋、戦焦山、破常州。十三年春、入臨安、下揚州、皆有功。江南平、入見、帝顧謂侍臣曰『真壮士也』。因賜名抜都児、授信武将軍・管軍総管・高郵軍達魯花赤、佩虎符。既而軍升為路、遂進懐遠大将軍・高郵路総管府達魯花赤。十六年、授昭勇大将軍、遷管軍万戸。漳州陳吊眼聚党数万、劫掠汀・漳諸路、七年未平」
- ^ 『元史』巻133列伝20完者都抜都伝,「至元四年、従万戸木花里掠地荊南、至襄陽、与宋兵戦、屡勝之。遂為梯登樊城、焚楼櫓、勇冠三軍。十一年、授武略将軍・彰徳南京新軍千戸。攻沙洋・新城、始授金符、領丞相伯顔帳前合必赤軍。渡江論功、改武義将軍。戦於丁家洲及揚子橋・焦山、破常州、入臨安、攻泰州新城皆預焉。江南帰附、入見、賜号抜都児、佩金虎符、遷信武将軍・管軍総管・高郵軍達魯花赤。首以興学勧農為務、四方則之。郡有虎傷人、手格殺之。既而高郵陞為路、進懐遠大将軍・高郵路達魯花赤。十六年、進昭勇大将軍・管軍万戸」
- ^ 『元史』巻131列伝18完者都伝,「十七年八月、枢密副使孛羅請命完者都往討、従之、加鎮国上将軍・福建等処征蛮都元帥、率兵五千以往。賜翎根甲、面慰遣之、且曰『賊苟就擒、聴汝施行』。時黄華聚党三万人、擾建寧、号頭陀軍。完者都先引兵鼓行圧其境、軍声大震、賊驚懼納款。完者都許以為副元帥、凡征蛮之事、一以問之。且慮其奸詐莫測、因大猟以耀武。適有一雕翔空、完者都仰射之、応弦而落、遂大猟、所獲山積、華大悦服。乃聞於朝、請与之倶討賊、朝廷従之、制授華征蛮副元帥、与完者都同署。華遂為前駆、至賊所、破其五寨。十九年三月、追陳吊眼至千壁嶺、擒之、斬首漳州市、余党悉平。軍還至揚州、奉旨賞賜有差。至高郵、病。七月、入覲、帝嘉之、賜鈔及銀・金綺・鞍勒・弓矢、復授管軍万戸・高郵路総管府達魯花赤。有虎為害、完者都挾弓矢出郊、射殺之。二十二年八月、以疾召入朝。帝屡遣中使存問、仍命良医視之。疾平、帝大喜、賜医者鈔万貫、拜完者都驃騎上将軍・江浙行省左丞、兼管軍万戸。初、浙西私塩、吏莫能禁、完者都躬詣松江上海、収塩徒五千、隷軍籍。九月、授中書左丞、行浙西道宣慰使。二十五年、遙授尚書省左丞。二十六年、升資徳大夫・江西等処行枢密院副使、兼広東宣慰使。疾復作、召還。成宗即位、入見、賜玉帯、授栄禄大夫・江浙行省平章政事」
- ^ 『元史』巻133列伝20完者都抜都伝,「十八年、閩賊陳吊眼作乱、擢鎮国上将軍・福建等処征蛮都元帥、賜翎根甲、命往討之。破其営、擒吊眼、至漳州斬以示衆。加管軍万戸、兼高郵路達魯花赤、賞賜無算。二十三年、進驃騎衛上将軍・江浙等処行中書省左丞、仍管軍万戸。遷浙西行中書省右丞、行浙西宣慰使。二十七年、転資徳大夫・江西等処行枢密院副使、兼広東宣慰使。元貞元年、入朝、拜栄禄大夫・江浙等処行中書省平章政事。大徳二年十一月卒、年五十九。贈效忠宣力定遠功臣・開府儀同三司・太尉・上柱国、追封林国公、諡武宣。卒於官、年五十九。贈効忠宣力定遠功臣・開府儀同三司・太尉・上柱国、追封林国公、諡武宣。子十四人、皆仕、而帖木禿古思・別里怯都尤顕。孫二十四人、仕者亦多云」
- ^ 小林1972,13頁
参考文献
[編集]- 『元史』巻131列伝18完者都伝
- 『元史』巻133列伝20完者都抜都伝