オットー1世 (ザルム伯)
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オットー1世・フォン・ザルム Otto I. von Salm | |
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ライン宮中伯 | |
在位 | 1125年 - 1137年 |
出生 |
1080年ごろ |
死去 |
1150年 |
配偶者 | ゲルトルート・フォン・ノルトハイム |
子女 |
オットー2世 ゾフィー ベアトリクス |
家名 | ザルム家 |
父親 | 対立ローマ王ヘルマン・フォン・ザルム |
母親 | ゾフィー・フォン・フォルムバッハ |
オットー1世・フォン・ザルム(Otto I. von Salm, 1080年ごろ - 1150年)は、ザルム伯およびライン宮中伯(継子ヴィルヘルムと共治、在位:1125年 - 1137年)。
生涯
[編集]オットーは対立ローマ王ヘルマン・フォン・ザルムとゾフィー・フォン・フォルムバッハの息子である。1115年ごろにフリースラント辺境伯ハインリヒ・フォン・ノルトハイムとゲルトルート・フォン・ブラウンシュヴァイクの娘で、ライン宮中伯ジークフリート1世の未亡人であったゲルトルートと結婚した。ゲルトルートは神聖ローマ皇帝ロタール3世の妃リヒェンツァの妹であった。
オットー1世はライネック城を建設し、1124年ごろよりオット・フォン・ライネックと名乗るようになった。継子であるライン宮中伯ヴィルヘルムが1140年に死去した後、オットーはライン宮中伯位を主張した。しかし1138年にローマ王に選出されたコンラート3世は、ライン宮中伯領を完全な封土として王のもとに回収し、義弟で忠実な支援者であったヘルマン・フォン・シュターレックに与えた。
オットーはトライス城を1148年まで、ライネック城を1151年まで保持した。しかし1148年にオットーとコンラート3世との間で争いが勃発し、コンラート3世は1148年にトライス城をオットーから取り上げ、トリーア大司教に与えた。そしてオットーの死後の1151年に、ライネック城は破却された。
子女
[編集]オットー1世はフリースラント辺境伯ハインリヒ・フォン・ノルトハイムの娘ゲルトルートと結婚し[1]、以下の子女をもうけた。
- オットー2世(1115年頃 - 1148/9年) - ヘルマン・フォン・シュターレックと戦いライン宮中伯領を奪還したが、1148年に捕虜となった。1148年または1149年にオーバーヴェセル近くのシェーンブルク城で首を絞められ殺害された。
- ゾフィー(1120年頃 - 1176年) - ホラント伯ディルク6世と結婚
- ベアトリクス - フリースラント辺境伯ヴィルブラント1世・フォン・ロックム=ハラームントと結婚
脚注
[編集]- ^ Schaab 1988, p. 30.
参考文献
[編集]- Stramberg, Johann Christian von (1858). Rheinischer Antiquarius. part III, vol. 5. p. 490 ff
- Schaab, M. (1988). Geschichte der Kurpfalz. Kohlhammer Verlag
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