オイゲン・フォン・エスターライヒ
オイゲン・フォン・エスターライヒ Eugen von Österreich | |
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称号 | オーストリア大公 |
出生 |
1863年5月21日 オーストリア帝国、モラヴィア、 グロース・ゼーロヴィッツ |
死去 |
1954年12月30日(91歳没) イタリア、南チロル、メラーノ |
家名 | ハプスブルク=テシェン家 |
父親 | カール・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=テシェン |
母親 | エリーザベト・フランツィスカ・フォン・エスターライヒ |
役職 |
陸軍元帥 ドイツ騎士団総長 |
オイゲン・フォン・エスターライヒ(Eugen von Österreich, 1863年5月21日 - 1954年12月30日)は、オーストリア=ハンガリー帝国の軍人、陸軍元帥。ハプスブルク=ロートリンゲン家出身の最後のドイツ騎士団総長(在任:1894年 - 1923年)。全名はオイゲン・フェルディナント・ピウス・ベルンハルト・フェリクス・マリア(Eugen Ferdinand Pius Bernhard Felix Maria von Österreich)。
生涯
[編集]オーストリア皇帝家の分家であるテシェン公爵家出身のカール・フェルディナント大公と、その妻でハンガリー宮中伯ヨーゼフ・アントン大公の娘であるエリーザベト・フランツィスカの間の末息子として、モラヴィアのグロース・ゼーロヴィッツ(現在のチェコ領ジドロホヴィツェ)で生まれた。2人の兄と同様に軍人としての人生を歩んだ。また皇帝家の一員でありながら、家具職人としての技術を習得していた。
ハプスブルク家では当主(皇帝)以外も「オーストリア大公」位を名乗る習慣のため、上述のように分家の出であるが「オイゲン大公」と呼ばれる。
1894年に亡くなった叔父のヴィルヘルム大公から、ドイツ騎士団総長の職を引き継いだ(オイゲンはヴィルヘルム大公の個人資産の相続人でもあった)。オイゲンの下で、ドイツ騎士団は純粋に宗教的な騎士修道会へとその性格を変えた。また、ドイツ騎士団総長が兼務するオーストリア=ハンガリー第4歩兵連隊(K.u.k. Infanterie-Regiment Hoch- und Deutschmeister Nr. 4)の連隊長をも務めた。この他、プロイセン軍の第3胸甲騎兵連隊(Kürassier-Regiment „Graf Wrangel“ (Ostpreußisches) Nr. 3)の連隊長でもあった。第1次世界大戦では、陸軍元帥として西部戦線南方の最高指揮官を務めた。
1898年にザルツブルク州のホーエンヴェルデン城を購入し、この城を改築して居城とした。オイゲンは居城に莫大な数の美術品と武器を収集・陳列していた。1931年、ホーエンヴェルデン城は火の不始末から火事になり、大部分が焼けてしまった。オイゲンは莫大な資金をかけて城を再建した。1938年にアンシュルスが実施された後、オイゲンはナチス・ドイツの大管区指導者により、家屋敷を売却することを強要された。
1954年、南チロルのメラーノで91歳の高齢で亡くなった。
外部リンク
[編集]- Nikolaus von Preradovich: Eugen. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 4, Duncker & Humblot, Berlin 1959, ISBN 3-428-00185-0, S. 673 (電子テキスト版).
- オイゲン・フォン・エスターライヒ - Aeiou Encyclopedia
- Biografie bei Austrian Commanders
先代 ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ |
ドイツ騎士団総長 1894年 - 1923年 |
次代 ノルベルト・ヨハン・クライン |