エルヴァイン・フォン・デア・ライエン
エルヴァイン・フォン・デア・ライエン Erwein von der Leyen | |
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ライエン侯 | |
在位 | 1829年 - 1879年 |
出生 |
1798年4月3日 ヴィーゼントハイト |
死去 |
1879年5月7日(81歳没) ヴァール |
配偶者 | ゾフィー・テレーゼ・ヨハンナ・フォン・シェーンボルン・ブーフハイム |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ライエン家 |
父親 | ライエン侯フィリップ |
母親 | ゾフィー・フォン・シェーンボルン=ヴィーゼントハイト |
カール・オイゲン・ダミアン・エルヴァイン・フォン・ウント・ツー・デア・ライエン(Karl Eugen Damian Erwein Fürst von und zu der Leyen und Graf zu Hohengeroldseck, Freiherr zu Adendorf, 1798年4月3日 - 1879年5月7日)は、ドイツのシュタンデスヘル。ライエン侯、ホーエンゲロルツエック伯爵及びアーデンドルフ男爵。
生涯
[編集]ナポレオン時代に短期間だがライエン侯国を統治したフィリップ・フォン・デア・ライエンと、その妻の伯爵令嬢ゾフィー・フォン・シェーンボルン=ヴィーゼントハイト(1772年 - 1810年)の間の第2子、長男。1817年11月23日、バイエルン王国の諸侯身分に登録された。1820年、ライエン家の新しい居所としてオストアルゴイ郡のヴァール・ウンターディーセンの騎士領を購入した。以前の所領だったライン川沿いのアーレンフェルス(Arenfels)、ニーヴァーン(Nievern)、カンプ(Camp)などは売却された。バイエルン王国軍に仕官し、1814年少尉、1817年中尉、1820年大尉、1823年少佐、1833年中佐、1841年(名誉的な)大佐、そして1856年少将に登った。
1829年の父の死と同時に侯の称号とバーデン等族議会第1院の世襲議席を継承したが、議会には生涯出席することはなかった。バーデン邦議会の議席は、父の統治したライエン侯国が陪臣化され、いったんオーストリア帝国の主権下に入ったのち、1819年にバーデン大公国領に帰属した経緯から生じたものである。
子女
[編集]1818年8月1日ウィーンで、伯爵令嬢ゾフィー・テレーゼ・ヨハンナ・フォン・シェーンボルン・ブーフハイム(1798年 - 1876年)と結婚した。夫婦には6人の子がいたが、成人したのは3人だけである[1]。
- フィリップ(1819年 - 1882年) - ライエン侯
- フランツ(1821年 - 1875年)
- ゾフィー(1822年 - 1829年)
- アマーリエ(1824年 - 1857年)
- エルヴァイン(1826年 - 1829年)
- マリア・アンナ(1828年 - 1829年)
参考文献
[編集]- Genealogisches Handbuch des Adels. Walter v. Hueck: Fürstliche Häuser Band X. Limburg a. d. Lahn 1978.
- Kurt Legrum: Philipp Fürst von der Leyen (* 1766; † 1829), eine biografische Annäherung. Ausstellung im August 2016 im Haus des Bürgers in Blieskastel, Ausstellungskatalog, ISBN 978-3-00-053371-6, S. 9 (Angaben zum Leben des Sohns Erwein).