エルンスト・カジミール2世・ツー・イーゼンブルク・ウント・ビューディンゲン
エルンスト・カジミール2世 Ernst Casimir II. | |
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イーゼンブルク=ビューディンゲン侯 | |
在位 | 1848年 - 1861年 |
出生 |
1806年12月14日 ビューディンゲン |
死去 |
1861年2月16日(54歳没) ビューディンゲン |
配偶者 | テクラ・ツー・エアバッハ=フュルステナウ |
子女 |
ブルーノ アーダルベルト エンマ アグネス ロタール |
家名 | イーゼンブルク家 |
父親 | イーゼンブルク=ビューディンゲン侯エルンスト・カジミール1世 |
母親 | フェルディナンデ・ツー・エアバッハ=シェーンベルク |
エルンスト・カジミール2世・ツー・イーゼンブルク・ウント・ビューディンゲン(Ernst Casimir II. Fürst zu Ysenburg und Büdingen, 1806年12月14日 - 1861年2月16日)は、ドイツ・ヘッセン大公国のシュタンデスヘル。イーゼンブルク=ビューディンゲン侯(在位:1848年 - 1861年)。
生涯
[編集]イーゼンブルク=ビューディンゲン侯エルンスト・カジミール1世とその妻のエアバッハ=シェーンベルク伯爵夫人フェルディナンデ(1784年 - 1848年)の間の第2子、長男として生まれた。12歳の時にプロイセン王立大学予備学校(königlich preußische Pädagogium)に送られ、マトゥラ(大学入学資格)を取得後の1826年にギーセン大学に入学し、後にベルリン歴史学・考古学高等専門学校(Berliner Hochschule Geschichte und Archäologie)で学んだ。さらに、フランス語習得のため一時的にバーゼルとジュネーヴに留学した。学業を修めた後、数年間オーストリア帝国軍に士官として勤務している。1836年9月8日にベーアフェルデンにおいて、エアバッハ=フュルステナウ伯爵夫人テクラ(1815年 - 1874年)と結婚した。
1848年11月1日、1848年革命の余波を受けて引退を余儀なくされた父に代わり、侯爵家の当主となる。家督相続により自動的にヘッセン大公国議会(Landstände des Großherzogtums Hessen)の第1院(貴族院)世襲議員となった。ただし、すでに1841年より父に代わって議会に出席していた。ヘッセンでの革命運動の激化により、貴族院議員の代理出席の慣行は廃止され、1849年には貴族院自体が廃止された。しかしその後の反動期(Reaktionsära)の保守勢力の巻き返しにより、エルンスト・カジミールは1856年に貴族院議員の席を取り戻し、亡くなるまで務めた。晩年は長く病苦に苦しんだ後、1861年に死去し、長男のブルーノが後を継いだ。
子女
[編集]妻テクラとの間に3男2女の5人の子女をもうけた。
- ブルーノ・カジミール・アルベルト・エミール・フェルディナント(1837年 - 1906年) - イーゼンブルク=ビューディンゲン侯
- アーダルベルト(1839年 - 1885年) - 1875年、イーゼンブルク=ビューディンゲン=ヴェヒタースバッハ侯女アレクサンドラと結婚
- エンマ・フェルディナンデ・エミーリエ(1841年 - 1926年) - 1859年、カステル=リューデンハウゼン伯(1901年からカステル=リューデンハウゼン侯)ヴォルフガングと結婚
- アグネス・マリー・ルイトガルデ(1843年 - 1912年) - 1865年、イーゼンブルク=ビューディンゲン=メーアホルツ伯家家長カールと結婚
- ロタール(1851年 - 1888年) - 1875年、ヴァッセナール=シュターレンブルク伯爵夫人ジャクリーヌと結婚
参考文献
[編集]- Herman Haupt (Hrsg.): Hessische Biografien. Band I, Lieferung 1. Großherzoglich hessischer Staatsverlag, Darmstadt 1912
- Jochen Lengemann: MdL Hessen 1808-1996, 1996, ISBN 3-7708-1071-6, Seite 421