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エルミナの戦い (1625年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エルミナの戦い
Battle of Elmina
Slag bij Elmina
オランダ・ポルトガル戦争英語版

1668年のエルミナの様子を描いた絵画
1625年10月25日
場所ポルトガル領黄金海岸エルミナ(現ガーナ
結果 イベリア連合(ポルトガル)が勝利 [1][2][3]
衝突した勢力
オランダ西インド会社 ポルトガルの旗 ポルトガル
指揮官
ヤン・ディルクス・ラム(Jan Dircksz Lam) [4] フェルナンド・デ・ソットマヨール(Fernando de Sottomayor) [5]
戦力
兵1,200人[6]
15 ships [5]
56 Portuguese[1][5]
200 African allies
被害者数
45人生還、他全滅 [5] 戦死27人

エルミナの戦い (: Battle of Elmina : Slag bij Elmina) は、1625年10月25日ポルトガル領黄金海岸のサン・ジョルジェ・ダ・ミーナ城(エルミナ城)付近で行われた[3][7]オランダ・ポルトガル戦争の軍事衝突である。オランダ西インド会社の兵士1200人(15隻からなる船団で移動)が上陸し、城のポルトガル軍守備隊を攻撃した。守備隊は、地元のカシケたちによって総督ソットマヨールに仕えていた200人のアフリカ人が加勢していた[8]

オランダ軍は城を砲撃して戦闘を開始した。その後、オランダ軍は城への進軍を開始したが、伏兵と化したポルトガル軍の待ち伏せ攻撃にあい、ほとんど全軍が虐殺された。この時には総司令官とその将校全員が戦死していた[5]。ポルトガル人の死傷者はほとんどなく、旗15本、太鼓15個、さらにマスケット銃、矛、拳銃、衣服などをそれぞれ1,000余り奪った。オランダの船は、撤退する前に2,000発以上の砲弾を城へ向けて撃ち放った。

脚注

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脚注

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出典

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  1. ^ a b Glete, p. 174
  2. ^ Gann, Duignan, p. 309
  3. ^ a b Dann, Seaton, p.34
  4. ^ Postma, Enthovenp.89
  5. ^ a b c d e Taylor, p.108
  6. ^ Dei-Anang, p.21
  7. ^ Rodriguez, p.236
  8. ^ Boxer, p.86

参考文献

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  • Glete, Jan, Warfare at Sea, 1500-1650: maritime conflicts and the transformation of Europe (2000).
  • Rodriguez, Junius P., The Historical Encyclopedia of World Slavery, Volume 1 (1997).
  • Boxer, C. R., Fidalgos in the Far East (1948).
  • Dei-Anang, Michael, Ghana Resurgent (1964).
  • Taylor, Gerard, Capoeira: the Jogo de Angola from Luanda to cyberspace, Volume 1 (2005).
  • Graham Dann, A. V. Seatton, Slavery, Contested Heritage, and Thanatourism (2001).
  • Johannes Postma, V. Enthoven, Riches from Atlantic Commerce: Dutch transatlantic trade and shipping, 1585-1817 (2003).
  • Lewis H. Gann, Peter Duignan, Africa and the World: an introduction to the history of sub-Saharan Africa (1999).

関連項目

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