エリーザベト・フォン・ヘッセン (1539-1582)
エリーザベト・フォン・ヘッセン Elisabeth von Hessen | |
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プファルツ選帝侯妃 | |
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在位 | 1576年 - 1582年 |
出生 |
1539年2月13日 神聖ローマ帝国 ヘッセン方伯領、カッセル |
死去 |
1582年3月15日(43歳没) 神聖ローマ帝国 プファルツ選帝侯領、ハイデルベルク |
埋葬 |
1582年4月1日 神聖ローマ帝国 プファルツ選帝侯領、ハイデルベルク、聖霊教会 |
結婚 | 1560年7月8日 マールブルク |
配偶者 | プファルツ選帝侯ルートヴィヒ6世 |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ヘッセン家 |
父親 | ヘッセン方伯フィリップ1世 |
母親 | クリスティーナ・フォン・ザクセン |
エリーザベト・フォン・ヘッセン(ドイツ語:Elisabeth von Hessen, 1539年2月13日 - 1582年3月15日)は、プファルツ選帝侯ルートヴィヒ6世の最初の妃。
生涯
[編集]エリーザベトはヘッセン方伯フィリップ1世とクリスティーナ・フォン・ザクセン(ザクセン公ゲオルクの娘)の間の娘である。
1560年7月8日にマールブルクで後にプファルツ選帝侯となるルートヴィヒ6世と結婚した。2人はルートヴィヒ6世が選帝侯となるまではアンベルクに居を構えた。敬虔なルター派信者のエリーザベトの影響下で、ルートヴィヒ6世は選帝侯領内でルター派を復活させた。
常に病であったルートヴィヒ6世は遺書で、ヴュルテンベルク公ルートヴィヒおよびブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ゲオルク・フリードリヒに加え、エリーザベトとその兄ルートヴィヒ4世を息子フリードリヒの後見人に指名した。しかし、プファルツ=ジンメルン公ヨハン・カジミールは選帝侯の男系親族として選帝侯領の管理人の地位を要求した。他の後見人と共に、エリーザベトは帝国裁判所でヨハン・カシミールと争ったが敗れた。その過程で、ヨハン・カジミールはエリーザベトの兄ヴィルヘルム4世の支持を受けていた。ヴィルヘルム4世はルター派の影響が妹エリーザベトを通してフリードリヒと選帝侯領の支配に及ぶことを恐れたためである。
1576年よりエリーザベトと夫ルートヴィヒ6世の医師であったゲオルク・マリウスにより診断されていた足痛風のため、オッフェナウの塩水浴場で温泉療法を受けた[1]。エリーザベトは夫ルートヴィヒ6世の死の1年前の1582年に(腸から痛みなく膿や血が出る病で[2])死去し、4月1日にハイデルベルクの聖霊教会に埋葬された。
子女
[編集]エリーザベトは12人の子を儲けたが、3人しか成長出来なかった。
- アンナ・マリア(1562年 - 1589年) - スウェーデン王カール9世と結婚。
- エリーザベト(1562年)
- ドロテア・エリーザベト(1565年)
- ドロテア(1566年 - 1568年)
- フリードリヒ・フィリップ(1567年 - 1568年)
- ヨハン・フリードリヒ(1569年)
- ルートヴィヒ(1570年 - 1571年)
- カタリーナ(1572年 - 1586年)
- クリスティーネ(1573年 - 1619年)
- フリードリヒ4世(1574年 - 1610年) - プファルツ選帝侯
- フィリップ(1575年)
- エリーザベト(1576年 - 1577年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Pauline Puppel: Die Regentin. Vormundschaftliche Herrschaft in Hessen 1500 - 1700. Campus-Verlag, Frankfurt am Main u. a. 2004, ISBN 3-593-37480-3, (Geschichte und Geschlechter 43), (Zugleich: Kassel, Univ., Diss., 2002–2003), S. 99.
- Christoph von Rommel: Geschichte von Hessen. Band 5. Perthes, Hamburg 1835, S. 585 f.
- Simmern, Elisabeth Pfalzgräfin von. Hessische Biografie. (Stand: 14. März 2020). In: Landesgeschichtliches Informationssystem Hessen.