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エリーザベト・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル (1593-1650)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エリーザベト・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル
Elisabeth von Braunschweig-Wolfenbüttel

称号 ザクセン=アルテンブルク公妃。
出生 (1593-06-23) 1593年6月23日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公領ヴォルフェンビュッテル
死去 (1650-03-25) 1650年3月25日(56歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン=アルテンブルク公領、アルテンブルク
配偶者 アウグスト・フォン・ザクセン
  ザクセン=アルテンブルクヨハン・フィリップ
子女 エリーザベト・ゾフィア
家名 ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家
父親 ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルハインリヒ・ユリウス
母親 エリサベト・ア・ダンマーク
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エリーザベト・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルドイツ語:Elisabeth von Braunschweig-Wolfenbüttel, 1593年6月23日 - 1650年3月25日)は、ザクセン=アルテンブルクヨハン・フィリップの妃。

生涯

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エリーザベトはブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルハインリヒ・ユリウスとその2番目の妃エリサベト・ア・ダンマークの娘としてヴォルフェンビュッテルで生まれた。

1612年1月1日にドレスデンにおいて、ザクセン選帝侯クリスティアン1世の息子でナウムブルク総督のアウグスト・フォン・ザクセン(1589年 - 1615年)と結婚した。しかしアウグストは3年後に26歳で死去した。

1618年10月25日にアルテンブルクにおいて、エリーザベトはザクセン=アルテンブルクヨハン・フィリップと再婚した。

1650年3月25日にアルテンブルクにおいてエリーザベトは死去し、アルテンブルクの兄弟教会に埋葬された。エリーザベトはその教会に杯を寄贈している[1]。エリーザベトはアルベルティン家エルネスティン家の両方に嫁いだが[2]、その座右の銘は「私のすべての喜びは神にあります」であった[3]。エリーザベトを刻した楕円形の金のドゥカートは、表面にはエリーザベトの肖像が、裏面には王冠をかぶった「E」が刻まれている。エリーザベトは「高潔の会」(実りを結ぶ会の女性版)の一員であり、「敬虔な人(Die Fromme)」という名を用いた[4]

子女

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2番目の夫ザクセン=アルテンブルクヨハン・フィリップとの間に1女が生まれた。

脚注

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  1. ^ C. E. von Malortie: contributions to the history of Brunswick-Lüneburg house and yard, Volume 2, Han'sche Hofbuchhandlung, 1864, p. 154
  2. ^ Theodore O. Weigel, Gustav Eduard Köhler: album of autographs for two hundred years celebration on 24 October 1848 of the Peace Treaty of Westphalia on 24 October 1648, T. O. Weigel, 1849, p. 9
  3. ^ Max Lbe. Mottos: devices and aphorisms, Kessinger Publishing, LLC, 2009, p. 210
  4. ^ Erika Alma Metzger, Richard E. Schade, Language societies, gallant female poets, Rodopi, 1989, p. 617

参考文献

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  • New Journal for the History of the Germanic peoples, Volume 1, Issue 1–4, Anton, 1832, p. 88 digitized
  • Ute like to eat:princesses at the Saxon court, Leipzig University Press, 2007, p. 128
  • Moritz Theodor Frommelt: Sachsen-Altenburg geography or history, Klinkhardt, 1838, p. 129