エリーザベト・フォン・アンハルト (1563-1607)
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エリーザベト・フォン・アンハルト Elisabeth von Anhalt | |
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ブランデンブルク選帝侯妃 | |
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在位 | 1577年 - 1598年 |
出生 |
1563年9月15日 神聖ローマ帝国 アンハルト=ツェルプスト侯領、ツェルプスト |
死去 |
1607年11月8日(44歳没) 神聖ローマ帝国 ブランデンブルク選帝侯領、クロッセン・アン・デア・オーダー |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 ブランデンブルク選帝侯領、ベルリン大聖堂 |
配偶者 | ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ゲオルク |
子女 | 一覧参照 |
家名 | アスカーニエン家 |
父親 | アンハルト侯ヨアヒム・エルンスト |
母親 | アグネス・フォン・バルビ |
エリーザベト・フォン・アンハルト(Elisabeth von Anhalt, 1563年9月15日 - 1607年11月8日)は、ドイツのブランデンブルク選帝侯ヨハン・ゲオルクの3番目の妻。
生涯
[編集]アンハルト侯ヨアヒム・エルンストとその最初の妻アグネス・フォン・バルビとの間の第3子、三女として生まれた。1577年10月6日にガルデレーゲン郊外のレッツリンゲン狩猟用城館(Jagdschloss Letzlingen)において、ヨハン・ゲオルク選帝侯と結婚した。エリーザベトは当時14歳の少女だったのに対し、ヨハン・ゲオルクは52歳の初老であり、夫婦には38歳の年齢差があった。夫の長子ヨアヒム・フリードリヒですら、エリーザベトより16歳年上であった。
結婚式は大して盛大に祝われることも無かったが、エリーザベトは朝の贈り物(Morgengabe)として年金400グルデンを保障された。エリーザベトは1万5000ターラーの持参金付きで輿入れし、婚資(寡婦財産)としてクロッセン(現ポーランド領ルブシュ県クロスノ・オジャンスキェ)の城と市街、ツューリハウおよびボーベルスベルク(現ボブロヴィツェ)の市街と農地など、相当に裕福な資産を与えられた。
エリーザベトは夫の先妻ザビーナと同じく宮廷侍医レオンハルト・トゥルナイッサーの研究活動の支援者となった。エリーザベトは度重なる妊娠と出産を繰り返し、1598年に夫と死別する頃にはすでに健康を損なっていた。寡婦になると年少の子供たちを連れてクロッセン城に引退し、9年後に44歳で亡くなって、ベルリン大聖堂に葬られた。
子女
[編集]夫との間に7男4女をもうけた。
- クリスティアン(1581年 - 1655年) - ブランデンブルク=バイロイト辺境伯
- マグダレーナ(1582年 - 1616年) - 1598年、ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ5世と結婚
- ヨアヒム・エルンスト(1583年 - 1625年) - ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯
- アグネス(1584年 - 1629年) - 1604年にポンメルン公フィリップ・ユリウスと結婚、1628年にザクセン=ラウエンブルク公子フランツ・カールと再婚
- フリードリヒ(1588年 - 1611年)
- エリーザベト・ゾフィー(1589年 - 1629年) - 1613年にヤヌシュ・ラジヴィウ侯と結婚、1628年にザクセン=ラウエンブルク公ユリウス・ハインリヒと再婚
- ドロテア・ジビッラ(1590年 - 1625年) - 1610年、ブジェク公ヤン・クリスティアンと結婚
- ゲオルク・アルブレヒト(1591年 - 1615年)
- ジギスムント(1592年 - 1640年)
- ヨハン(1597年 - 1627年)
- ヨハン・ゲオルク(1598年 - 1637年)
脚注
[編集]
参考文献
[編集]- Friederike Bornhak: Elisabeth von Anhalt: Kurfürstin von Brandenburg, dritte Gemahlin des Kurfürsten Johann Georg von Brandenburg, geboren 1563, gestorben 1607, S. Geibel, 1889
- Ernst Daniel Martin Kirchner: Die Kurfürstinnen und Königinnen auf dem Throne der Hohhenzollern, 2. Teil: Die letzten acht Kurfürstinnen, Berlin 1867, Seite 34 ff. (Digitalisat)