エマヌエル・ツデロス
エマヌエル・ツデロス Εμμανουήλ Τσουδερός | |
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生年月日 | 1882年7月19日 |
出生地 | オスマン帝国 クレタ島 レティムノ |
没年月日 | 1956年2月10日(73歳没) |
死没地 | イタリア ジェノヴァ県ネルヴィ |
出身校 | アテネ大学 |
所属政党 | 自由党など |
配偶者 | マリア・テイアカキ・ツデロス |
子女 | 3人 |
在任期間 | 1941年4月21日 - 1944年4月13日 |
国王 | ゲオルギオス2世 |
エマヌエル・ツデロス(ギリシア語: Εμμανουήλ Τσουδερός、英語: Emmanouil Tsouderos、1882年7月19日 - 1956年2月10日)は、ギリシャの政治家。第二次世界大戦中に短期間ながら首相を務め、その後はギリシャ亡命政府の首相を3年間務めた。
生涯
[編集]1882年7月19日にオスマン帝国領だったクレタ島のレティムノで誕生した。彼はアテネ大学で法律について勉強した後、パリとロンドンで経済学を学んだ[1]。
ツデロスは24歳のときにクレタ島に戻った。このときにはクレタ島はオスマン帝国の自治領でロシア・イギリス・フランス・イタリアの保護領となっており、ツデロスはすぐクレタ島の議会選挙に出馬して当選し、1906年から1912年まで議員を務めた。1913年12月にギリシャのクレタ島がギリシャに承認されると、ギリシャ議会の選挙で立候補して当選した。その後もエレフテリオス・ヴェニゼロスの第4期政権で交通相(在任:1924年1月24日 - 1924年2月19日)、アレクサンドロス・パパナスタシオウの第1期政権とテミストクリス・ソフリスの第1期政権で財務相(在任:1924年3月12日 - 1924年10月7日)など閣僚を歴任した。1928年にギリシャ銀行が業務を開始すると初代副総裁に就任し、1931年に総裁に就任した[2]。
第二次世界大戦中の1941年、首相アレクサンドロス・コリジスがナチス・ドイツ軍がアテネへ進撃している最中で拳銃自殺すると、ツデロスは後任の首相に就任した(在任:1941年4月21日 - 1941年4月29日)。しかし、ドイツ軍がすぐそこまで迫っていたため国王ゲオルギオス2世とクレタ島に脱出し、ドイツ軍に対抗するための軍勢を組織した。
しかし、1ヵ月後のクレタ島の戦いでまたもや亡命せざるをえず、中東、ついでエジプトへ逃げた。ツデロスは1944年まで亡命政府の首相を務め、退任した後はソフォクリス・ヴェニゼロスの閣僚になった。亡命政府ははじめロンドンに設立したが、後にカイロに移動した。
第二次世界大戦の後もアレクサンドロス・パパゴスのもとで閣僚を務めた。1956年2月10日にイタリアのジェノヴァ県ネルヴィで74歳で亡くなった[1]。
脚注
[編集]- ^ a b “M.Tsouderos War-Time Premier Of Greece Obituary”. The Times (London): pp. 9; Issue 53452; col C. (1956年2月11日). オリジナルの2008年10月6日時点におけるアーカイブ。 2008年6月29日閲覧。
- ^ Bank of Greece アーカイブ 2006年10月10日 - ウェイバックマシン
公職 | ||
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先代 アレクサンドロス・コリジス |
ギリシャの首相 1941年4月21日 - 1941年4月29日 |
次代 ゲオルギオス・ツォラコグル(ギリシャ国) |
先代 なし |
ギリシャの首相(亡命政府) 1941年4月29日 - 1944年4月13日 |
次代 ソフォクリス・ヴェニゼロス |