エドワード・プリドー・グウィン
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エドワード・プリドー・グウィン(英語: Edward Prideaux Gwyn、1698年? – 1736年6月ごろ)は、グレートブリテン王国の政治家。1724年から1729年まで庶民院議員を務めた。
生涯
[編集]アイルランド担当大臣、戦時大臣を歴任したフランシス・グウィンとマーガレット・プリドー(Margaret Prideaux、エドマンド・プリドーの娘[1])の長男として、おそらく1698年に生まれた[2]。1713年12月9日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した後、1714年7月22日にミドル・テンプルにも入学した[3]。
1722年イギリス総選挙で父がクライストチャーチ選挙区とウェルズ選挙区で当選し、後者の代表として議員を務めることとなったため、1724年2月にクライストチャーチ選挙区で補欠選挙が行われ、グウィンがトーリー党候補として出馬してホイッグ党候補のジョセフ・ヒンクスマンを破った[4]。1727年イギリス総選挙でウェルズ選挙区に鞍替えして再選したが、対立候補ウィリアム・ピアースによる選挙申し立ての結果、グウィンの落選とピアースの当選が宣告された[5]。
1734年6月2日に父が死去すると[1]、その遺産を継承したが、自身も1736年6月ごろに生涯未婚のまま死去[2]、弟フランシスが遺産を継承した[6]。
好古家であり、親しい友人に同じく好古家のトマス・ハーンがいたほか、デヴォンシャーに関する史料を収集したという[2]。
出典
[編集]- ^ a b Courtney, William Prideaux (1890). Stephen, Leslie; Lee, Sidney (eds.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 23. London: Smith, Elder & Co. pp. 403–404. . In
- ^ a b c Cruickshanks, Eveline (1970). "GWYN, Edward Prideaux (?1698-1736), of Llansannor, Glam. and Forde Abbey, Dorset.". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年11月6日閲覧。
- ^ Foster, Joseph, ed. (1891). "Greenhill-Gysby". Alumni Oxonienses 1500-1714 (英語). Oxford: University of Oxford. pp. 600–625.
- ^ Watson, Paula (1970). "Christchurch". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年11月6日閲覧。
- ^ Matthews, Shirley (1970). "Wells". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年11月6日閲覧。
- ^ Cruickshanks, Eveline (1970). "GWYN, Francis (?1699-1777), of Llansannor, Glam. and Forde Abbey, Dorset.". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年11月6日閲覧。
グレートブリテン議会 | ||
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先代 サー・ピーター・ミューズ フランシス・グウィン |
庶民院議員(クライストチャーチ選挙区選出) 1724年 – 1727年 同職:サー・ピーター・ミューズ 1724年 – 1726年 ジェイコブ・バンクス 1726年 – 1727年 |
次代 ジョセフ・ヒンクスマン チャールズ・ウィザー |
先代 フランシス・グウィン トマス・エドワーズ |
庶民院議員(ウェルズ選挙区選出) 1727年 – 1729年 同職:トマス・エドワーズ |
次代 ウィリアム・ピアース トマス・エドワーズ |