エデルン
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Edern | |
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行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | ブルターニュ地域圏 |
県 (département) | フィニステール県 |
郡 (arrondissement) | カンペール郡 |
小郡 (canton) | ブリエック小郡 |
INSEEコード | 29048 |
郵便番号 | 29510 |
市長(任期) |
ジャン=ポール・コジアン (2001年 - 2008年) |
自治体間連合 (fr) | fr:Communauté de communes du pays Glazik |
人口動態 | |
人口 |
2 112人 (2010年) |
人口密度 | 53人/km2 |
住民の呼称 | Édernois, Édernoise |
地理 | |
座標 | 北緯48度06分14秒 西経3度58分33秒 / 北緯48.103889度 西経3.975833度座標: 北緯48度06分14秒 西経3度58分33秒 / 北緯48.103889度 西経3.975833度 |
標高 |
平均:145m 最低:82m 最高:260m |
面積 | 39.98km2 |
公式サイト | www.edern.fr/Site de la commune |
エデルン (Edern)は、フランス、ブルターニュ地域圏、フィニステール県のコミューン。
地理
[編集]エデルンはコルヌアイユ地方の中心部にあり、県都カンペールとは約15km離れている。コミューンの地形は相対的に丘がちである。
由来
[編集]エデルンとは、9世紀のキリスト教の隠者エデルン(Saint Edern)に由来する。その名前からアイルランド島出身とされるが、一部ではウェールズ出身と考えられている。彼がコルヌアイユに到着した後、キスティニックの森への道がつくられ、ブリエック教区内に礼拝堂がつくられた。
1795年6月、主要道を避けてロコール・マンドン(現在モルビアン県のコミューン)からエデルンを通過したシュアンの首領ジョルジュ・カドゥーダルは、一両日中に火薬を手に入れるためポン・ド・ビュイの火薬庫を目指した。彼の副官の1人エヴェノ(Éveno)は、恐怖で震え上がる住民を前に立憲派司祭を射殺した。また、教区内の農家3人を人質にとって2頭のウマと6台の荷車を接収した[1]。
1943年1月23日、アメリカ空軍の戦略爆撃機B-17が、ロリアン空爆の帰路にフォッケウルフ Fw190によって攻撃、エデルンのケルガナバン地区に墜落した。B-17には10人が搭乗しており、2名が死亡した。他2人はル・クロワトル=プレバン住民によって匿われ、イギリスへ無事逃れた。残り6人のうち5人は戦争捕虜となり、1945年5月に解放されるまで戦争捕虜収容所に収容されていた[2] · [3]。
人口統計
[編集]1962年 | 1968年 | 1975年 | 1982年 | 1990年 | 1999年 | 2006年 | 2010年 |
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1666 | 1567 | 1590 | 1690 | 1759 | 1804 | 1969 | 2112 |
参照元:1999年までEHESS[4]、2000年以降INSEE[5][6]
ゆかりの人物
[編集]脚注
[編集]- ^ Journal "Le Temps" n° 15863 du 8 juillet 1903 et n° 15864 du 9 juillet 1903
- ^ b-17-flying-fortress
- ^ 303rdbg
- ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=12512
- ^ http://www.statistiques-locales.insee.fr
- ^ http://www.insee.fr