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エディ・ハワード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エディ・ハワード
エディ・ハワード、1960年撮影。
エディ・ハワード、1960年撮影。
基本情報
出生名 Edward Evan Duncan Howard[1]
生誕 (1914-09-12) 1914年9月12日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ウッドランド
死没 1963年5月23日(1963-05-23)(48歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州パームデザート
職業 ボーカリストバンドリーダー

エディ・ハワード (Eddy Howard) として知られた、 エドワード・イーヴァン・ダンカン・ハワード、Edward Evan Duncan Howard、1914年9月12日 - 1963年5月23日[2]は、1940年代から1950年代に人気が高かったアメリカ合衆国ボーカリストバンドリーダー

生い立ち

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エディ・ハワードは、カリフォルニア州ウッドランドに生まれ[2]1931年から1933年にかけてサンノゼ州立大学に学び、スタンフォード大学で医学を専攻したが、退学して、ロサンゼルスのラジオ局でロマンティックなバラッドを歌う歌手となった。その後、ベン・バーニー英語版ディック・ユルゲンス英語版の楽団の歌手となった[3]。ユルゲンス楽団でのヒット曲には「My Last Goodbye」や「Careless」があり、これらは彼のテーマ曲となった。

経歴

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1938年、ハワードはNBCのラジオ番組の歌手となった[4]

1939年にハワードは自身の楽団を立ち上げ、その後、1941年エドガー・A・ゲスト英語版のラジオ番組でブルー・ネットワークで水曜日から金曜日まで放送されていた『It Can Be Done』のレギュラー歌手となった[5]

ハワードと彼の楽団にとって、最初のナンバー1ヒットとなったのは、1946年にUSポップ・チャートで通算5週にわたって首位に立った「To Each His Own」であった。この曲は、パラマウント1946年の映画遥かなる我が子』の主題歌で、この映画はオリヴィア・デ・ハヴィランドと脚本家のチャールズ・ブラケット英語版アカデミー賞をもたらした。ハワードの録音は、マジェスティック・レコード英語版からカタログ番号 7188 と 1070 でリリースされた。このレコードは、『ビルボード』誌のチャートで、1946年7月11日付で首位に立ち、通算19週にわたってチャート入りしていた[6]。この録音は、1957年まで200万枚以上を売り上げ、アメリカレコード協会 (RIAA) からゴールドディスクに認定された[7]

ハワードの楽団は、NBCの『The Gay Mrs. Featherstone』(1945年4月18日 - 10月10日[8]や、シェーファー・ペンズが提供していたNBCの『The Sheaffer Parade[8]:3021947年9月14日 - 1948年9月5日)にも出演していた。

1949年、ハワードは、マーキュリー・レコードと契約した。彼の人気は1950年代も続き、「Maybe It's Because」や「(It's No) Sin」がヒットし、後者はハワードにとって2枚目のナンバー1ヒットとなって100万枚以上を売り上げ、ゴールドディスクを獲得した[9]。この曲はザ・フォー・エイセス英語版のバージョンも100万枚以上を売り上げた[9]。ハワードにとって最後のヒットは、「The Teen-Ager's Waltz」で、1955年に『ビルボード』誌のトップ100チャートで最高90位に入った。1952年から1953年にかけて、彼はCBSで木曜日の夜、午後10時45分からの放送に出演し、さらに1955年から1956年にかけては火曜日午後10時からの放送に出演していた。しかし、ロック音楽の台頭とともに、ハワードの人気は陰っていった。

役割を変えたハワードは、1954年には、NBCの1時間バラエティ番組『Just for You』の司会者となった。この番組では、WMAQ の局の楽団が演奏を担当した[8]:186

1960年代になるとハワードは、大衆文化で「ノスタルジア」を総称された、ビッグバンド音楽や古き良きラジオ英語版への関心の復活に乗って、再び運気が向いてきた。ハワードは既に半ば引退した状態だったが、一時期彼のもとでサクソフォーン奏者を務めていたボーカリストでバンドリーダーのノーマン・リー (Norman Lee) がエディ・ハワード楽団 (the Eddy Howard Orchestra) の名義と、バンドの編曲を使用する権利を手に入れた。リーと楽団は、合衆国中西部ではダンス・バンドとして広く知られる存在となった。楽団は、カンザス州ウィチタを拠点として広く各地を巡業し、自らのレーベルであるマリアン・レコード (Marian Records) からレコードを出した。1960年代後半には、リーはエディ・ハワードの名を使用するのをやめて、自身の名義で楽団を率いて活動するようになったが、ハワードのスタンダード曲のいくつかは、そのまま楽団のレパートリーとして残された。この楽団の活動は、1978年12月6日に、リー夫妻が、かつての楽団のトランペット奏者たちに殺害されるまで続いた。

栄誉

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ハワードは、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの録音部門に星を与えられており、ハリウッド・ブールバード6724番地に星がある。この星が与えられたのは、1960年2月8日のことであった[10]

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1963年5月、ハワードは就寝中の脳内出血のため[2]カリフォルニア州パームデザートにおいて48歳で死去した。亡骸は、カリフォルニア州カセドラル・シティ英語版デザート・メモリアル・パーク英語版に埋葬された。

ディスコグラフィ

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シングル

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曲名 チャート
US
1946 "To Each His Own" 1
"The Rickety Rickshaw Man" 6
"(I Love You) For Sentimental Reasons" 2
"My Best to You" 17
1947 "The Girl That I Marry" 23
"My Adobe Hacienda" 2
"Heartaches" 11
"I Wonder, I Wonder, I Wonder"[11] 2
"Ragtime Cowboy Joe"[12] 16
"Kate (Have I Come Too Early, Too Late)" 7
"An Apple Blossom Wedding" 9
1948 "Now Is the Hour (Maori Farewell Song)" 8
"Just Because" 20
"Put 'em in a Box, Tie 'em with a Ribbon, and Throw 'em in the Deep Blue Sea" 23
"(I'd Like to Get You on a) Slow Boat to China" 6
"Dainty Brenda Lee" 27
1949 "Candy Kisses" 20
"Love Me! Love Me! Love Me!" 24
"Red Head" 29
"Room Full of Roses" 4
"Yes, Yes, in Your Eyes" 21
"Maybe It's Because" 9
"Tell Me Why" 25
1950 "Half a Heart Is All You Left Me (When You Broke My Heart in Two)" 28
"Rag Mop" 24
"American Beauty Rose" 21
"To Think You've Chosen Me" 9
1951 "A Penny a Kiss-A Penny a Hug" 14
"The Strange Little Girl" 28
"What Will I Tell My Heart" 27
"(A Woman Is a) Deadly Weapon" 22
"(It's No) Sin" 1
1952 "Stolen Love" 11
"Wishin'" 17
"Be Anything (But Be Mine)" 7
"Auf Wiederseh'n Sweetheart" 4
"Mademoiselle" 14
"I Don't Want to Take a Chance" 26
"It's Worth Any Price You Pay" 11
1953 "Gomen-nasai" 17
1954 "Melancholy Me" 16
1955 "The Teen-Ager's Waltz" 90

脚注

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  1. ^ Eddy Howard "A Million Dreams Ago"”. Big Band Library. 2015年8月17日閲覧。
  2. ^ a b c Doc Rock. “The 1960s”. The Dead Rock Stars Club. 2015年8月17日閲覧。
  3. ^ “Jurgens Orchestra at Coconut Grove”. The Salt Lake Tribune. The Salt Lake Tribune (Utah, Salt Lake City): p. 19. (September 2, 1935). https://www.newspapers.com/clip/4946671/the_salt_lake_tribune/ April 14, 2016閲覧。  オープンアクセス
  4. ^ “Tim and Irene to Continue Farce”. The Ogden Standard-Examiner. The Ogden Standard-Examiner (Utah, Ogden): p. 4. (May 19, 1938). https://www.newspapers.com/clip/4946725/the_ogden_standardexaminer/ April 14, 2016閲覧。  オープンアクセス
  5. ^ “Land O'Lakes Series”. Broadcasting. (January 13, 1941). p. 32. http://www.americanradiohistory.com/hd2/IDX-Business/Magazines/Archive-BC-IDX/41-OCR/1941-01-12-BC-OCR-Page-0032.pdf 15 April 2016閲覧。 
  6. ^ Whitburn, Joel (1973). Top Pop Records 1940-1955. Record Research 
  7. ^ Murrells, Joseph (1978). The Book of Golden Discs (2nd ed.). London: Barrie and Jenkins Ltd. p. 35. ISBN 0-214-20512-6. https://archive.org/details/bookofgoldendisc00murr/page/35 
  8. ^ a b c Terrace, Vincent (1999). Radio Programs, 1924-1984: A Catalog of More Than 1800 Shows. McFarland & Company, Inc. ISBN 978-0-7864-4513-4. Pp. 127-128.
  9. ^ a b Murrells, Joseph (1978). The Book of Golden Discs (2nd ed.). London: Barrie and Jenkins Ltd. p. 55. ISBN 0-214-20512-6. https://archive.org/details/bookofgoldendisc00murr/page/55 
  10. ^ Eddy Howard”. Hollywood Walk of Fame. 15 April 2016閲覧。
  11. ^ Gilliland, John. (2020年3月23日). “Pop Chronicles 1940s Program #19 - All Tracks UNT Digital Library”. Digital.library.unt.edu. 2021年1月21日閲覧。
  12. ^ "Ragtime Cowboy Joe" also peaked at #5 in Billboard Country Singles.

参考文献

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  • Who's Who in America, Volume 26. Chicago: A.N. Marquis Company, 1950. ASIN B000GDEIKE

外部リンク

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