エットーレ・ルケージ・パッリ
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エットーレ・ルケージ・パッリ Ettore Lucchesi Palli | |
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第4代グラツィア公 第9代カンポフランコ公 | |
在位 | 1856年 - 1864年 |
出生 |
1806年8月2日 シチリア王国、パレルモ |
死去 |
1864年4月1日(57歳没) オーストリア帝国、ブルンゼー城 |
配偶者 | マリー・カロリーヌ・ド・ブルボン |
子女 |
アンナ・マリーア クレメンティーナ・イザベッラ マリーア・フランチェスカ・ディ・パーオラ マリーア・イザベッラ マリオ・アディノルフォ |
家名 | ルケージ・パッリ家 |
父親 | 第3代グラツィア公アントーニオ・ルケージ・パッリ |
母親 | マリーア・フランチェスカ・ピニャテッリ |
エットーレ・カルロ・ルケージ・パッリ(Ettore Carlo Lucchesi Palli, 1806年8月2日 - 1864年4月1日)は、イタリア・両シチリア王国の貴族。伯爵、のち第4代グラツィア公爵、第9代カンポフランコ公。
生涯
[編集]第3代グラツィア公爵アントーニオ・ルケージ・パッリ(1781年 - 1856年)とその妻マリーア・フランチェスカ・ピニャテッリ(1784年 - 1837年)の間の次男として生まれた。ルケージ・パッリ家はルッカに起源を持つ古い貴族家門である。1831年12月14日ローマにおいて、ベリー公爵夫人マリー・カロリーヌと秘密結婚した。カロリーヌは両シチリア王フランチェスコ1世の娘、ベリー公爵シャルル・フェルディナンの未亡人であり、7月革命で失った次期国王の母后としての地位を取り戻すべく1832年4月フランス西部で反乱を起こすが、失敗している。妻カロリーヌがオーストリア・シュタイアーマルク州に購入したブルンゼー城で暮らした。1856年父の死とともに公爵位を継承。
カロリーヌとの間に5人の子をもうけた。
- アンナ・マリーア(1833年) - カロリーヌが反乱扇動罪で収監中に出産した婚外子
- クレメンティーナ・イザベッラ(1835年 - 1925年) - 1856年カミッロ・ツィレリ伯爵と結婚
- マリーア・フランチェスカ・ディ・パーオラ(1836年 - 1923年) - 1860年アルソリ公カミッロ・マッシモ[1]と結婚
- マリーア・イザベッラ(1838年 - 1873年) - 1856年マッシミリアーノ・ディ・カブリアーニ侯爵と結婚、1864年ジョヴァンニ・バッティスタ・ディ・コンティ伯爵と再婚
- マリオ・アディノルフォ・レオポルド・アントニオ・エットーレ(1840年 - 1911年) - 第5代グラツィア公爵
引用
[編集]- ^ 嫡孫のアルソリ公レオーネ・マッシモは作曲家で、ジェノヴァ公トンマーゾの次女マリーア・アデライーデと結婚した。また、次男のロヴィアーノ公ファブリツィオ・マッシモはマドリード公カルロス・マリアの三女ベアトリスを妻とした。
参考文献
[編集]- Constantin von Wurzbach: Lucchesi-Palli, Hector Karl Graf. In: Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich. 16. Theil. Kaiserlich-königliche Hof- und Staatsdruckerei, Wien 1867, S. 129 f. (Digitalisat).
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