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エクトル・ファーブル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エクトル・ファーブル
Hector Fabre
エクトル・ファーブル(1879年)
生年月日 (1834-08-09) 1834年8月9日
出生地 ローワー・カナダモントリオール
没年月日 1910年9月2日(1910-09-02)(76歳没)
死没地 フランスの旗 フランス共和国パリ
現職 ジャーナリスト政治家
所属政党 ナショナリスト
称号 CMG
親族 父:エドゥアール=レイモン・ファーブル

選挙区 ケベック州ラ・サール区
在任期間 1875年 - 1882年

在任期間 1882年 - 1910年
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ルイ・ロック・エクトル・ファーブルフランス語: Louis-Roch Hector Fabre, 1834年8月9日 - 1910年9月2日)は、カナダ法律家ジャーナリスト外交官上院議員。カナダ初の在フランス代表である。

生涯

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フランス系カナダ人としてモントリオールに生まれた。ファーブル家はケベック州の名家で、父親エドゥアール=レイモン・ファーブルは1849年から1951年にかけてモントリオール市長を務めた。また兄のエドゥアール=シャルルはモントリオール大司教となり、姉のオルタンスは建国の父ジョルジュ=エティエンヌ・カルティエ保守党)の妻となった。

ファーブルは1956年にケベック州弁護士会に登録し、いくつもの新聞、雑誌の編集に携わった。1867年には、ケベック・シティで1世紀にわたってフランス語日刊新聞として発行されていた”L'Événement”を創刊した。

ファーブルは1875年2月5日にアレキサンダー・マッケンジー首相自由党)の推薦で上院議員に任命された。ナショナリスト党員として、彼は1882年7月2日に辞めるまでケベック州ラサール区代表の上院議院を務めた[1]

1882年初め、ファーブルはフランスでの滞在経験をもとに、ケベック州政府に対して駐仏代表の必要性を提起した。1882年3月、州副総督は枢密院令を裁可し、ケベック州の総代理人(agent general)としてファーブルがパリに派遣されることになった。ファーブルには情報収集や経済分野での役割とともに、州首相に直接報告できる権限が与えられた。その後、ジョン・マクドナルド首相はファーブルを連邦政府の代表とすることにしたため、彼は州と連邦の代表を兼任することになった[2]。こうしてファーブルはカナダが最初に任命した在フランス弁務官として、死去する1910年までパリで過ごすことになった[3]。この地位はカナダ史における最初の外交職のひとつであった。

1886年には聖マイケル・聖ジョージ勲章を受章し、1887年にはレジオンドヌール勲章を受章した。

著作

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  • Esquisse biographique sur Chevalier de Lorimier, 1856
  • La St-Jean-Baptiste à Québec, 1865
  • Confédération, indépendance, annexion, 1871
  • Pourquoi j'ai été battu, 1873
  • Chroniques, 1877
  • Société des études coloniales et maritimes, 1884

雑誌・新聞

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  • L'Ordre
  • Le Canadien
  • L'Événement (ケベック州) 創刊者。フランスの同名の”L'Événement”紙とは異なる。
  • Paris-Canada 創刊者

脚注

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  1. ^ FABRE, The Hon. Hector, Parliamentarian File”. Parliament of Canada. 2012年11月26日閲覧。
  2. ^ Hector Fabre, Dictionary of Canadian Biography”. University of Toronto Press. 2012年11月26日閲覧。
  3. ^ Fabre, Hon. Hector (Non-career), Heads of Post List”. Foreign Affairs and International Trade Canada. 2012年11月26日閲覧。

参考文献

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