エカテリーナ・マクシーモワ
エカテリーナ・マクシーモワ (露: Екатери́на Серге́евна Макси́мова、英: Ekaterina Sergeevna Maximova、1939年2月1日 - 2009年4月28日)は、ロシアのバレエダンサーである[1]。20世紀後半のロシア・バレエ界の代表的なダンサーの1人であり、舞踊技術に加えて演技力や表現力にも秀でていた[1]。
生涯
[編集]1939年2月1日にモスクワで生まれた。父親は技師、母親はジャーナリストだった[2]。 モスクワ国立舞踊アカデミーにてI・ラファイロワ、エリザヴェータ・ゲルトから指導を受ける。 1957年にモスクワでの全連合バレエコンクールにて優勝し、同年にチャイコフスキー作曲のバレエ、くるみ割り人形(バイノーネン版)で主役のマーシャとしてデビューした。 バレエ学校を卒業後、ボリショイ劇場に正式に入団を許可された。以降はガリーナ・ウラノワが劇場での教師となった。1958年から1988年までボリショイ・バレエに在籍して活躍した[3]。
可憐な容姿に加えて高度な舞踊技巧と演技力を兼ね備え、「ボリショイのベビー・バレリーナ」と呼ばれて人気を集めた[1][3]。夫である名ダンサー、ウラジーミル・ワシーリエフとは、モスクワ国立舞踊アカデミー時代からの同級生で9歳から互いのことを知っている。二人のペアは世界最高峰のデュエットと称された。[3]。
夫婦にとっての大きな悲劇は、子供を亡くしたことだった。医師が赤ちゃんの心臓が鼓動しなくなったと報告した後、マクシーモワはそれを信じなかった。 子供の喪失により、マクシーモワはさらに大きな情熱を持ってバレリーナとしての仕事に没頭するようになった。
ボリショイ劇場でのリハーサル中、脊髄損傷を受けた。医師達は舞台に戻ることはおろか、歩くこともできないと主張したが、後に舞台に復帰した。
ボリショイのプリマの地位を退いたあとも、ワシーリエフが演出・振付を手がけた 『アニュータ』 (1986年)のタイトルロールを踊って絶賛を得ている[1]。1998年からボリショイのバレエ・ミストレスを務め、S・ルンキナ、A・ニクーリナらを育てた[4]。2009年4月28日、モスクワにて急逝[5]。
小惑星(4145) Maximovaはマクシーモワの名前にちなんで命名された[6]。
賞歴
[編集]- 1964年 - 第1回ヴァルナ国際バレエコンクール・金賞
- 1973年 - ソ連人民芸術家
脚注
[編集]- ^ a b c d 『別冊ダンスマガジン バレエって、何?』、p.65.
- ^ "МАКСИМОВА Екатерина Сергеевна", Кто Есть Кто, Международный Объединенный Биографический Центр
- ^ a b c 『バレエ・ダンサー201』、pp.128.
- ^ Умерла Екатерина Максимова, «Время новостей». 2009. 29 апреля. № 74.
- ^ デイリー・テレグラフによる訃報(英語)
- ^ “(4145) Maximova = 1967 PB = 1974 RC1 = 1981 SJ7 = 1981 WB5”. MPC. 2021年10月5日閲覧。
参考文献
[編集]- ダンスマガジン編 『バレエ・ダンサー201』 新書館、2009年。ISBN 978-4-403-25099-6
- ダンスマガジン編 『別冊ダンスマガジン バレエって、何?』 新書館、1993年。
外部リンク
[編集]- ボリショイ・バレエ〜ダンサーで紐解く歴史〜 Vol.3 ジャパン・アーツ
- ボリショイ・バレエ団 『ロミオとジュリエット』(YouTube - 1974年。ロミオ役はV・ワシーリエフ)