ウルズラ・フォン・ブランデンブルク (1488-1510)
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ウルズラ・フォン・ブランデンブルク Ursula von Brandenburg | |
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出生 |
1488年10月17日 神聖ローマ帝国 ブランデンブルク選帝侯領、ベルリン |
死去 |
1510年9月18日(21歳没) 神聖ローマ帝国 メクレンブルク公領、ギュストロー |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 メクレンブルク公領、ドベラーン修道院 |
配偶者 | メクレンブルク=シュヴェリーン公ハインリヒ5世 |
子女 |
ゾフィー マグヌス3世 ウルズラ |
家名 | ホーエンツォレルン家 |
父親 | ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ツィーツェロ |
母親 | マルガレーテ・フォン・テューリンゲン |
ウルズラ・フォン・ブランデンブルク(Ursula von Brandenburg, 1488年10月17日 - 1510年9月18日)は、メクレンブルク=シュヴェリーン公ハインリヒ5世の妃[1]。
生涯
[編集]ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ツィーツェロとマルガレーテ・フォン・テューリンゲンの娘としてベルリンで生まれた。
1507年2月16日に19歳でメクレンブルク=シュヴェリーン公ハインリヒ5世(1479年 - 1552年)と結婚した[2]。2人の間には3子が生まれた。
- ゾフィー(1508年 - 1541年) - ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公エルンスト1世と結婚
- マグヌス3世(1509年 - 1550年) - メクレンブルク=シュヴェーリン公、1532年よりシュヴェーリン司教。
- ウルズラ(1510年8月30日 - 1586年4月22日) - リーブニッツのクララ会修道院の最後の女子修道院長
1510年、第3子を産んで1ヵ月経たないうちに21歳でギュストローにおいて死去した。
脚注
[編集]- ^ Stieber, Georg Friedrich (1716) (ドイツ語). Leben des Hertzogs Magni zu Mecklenburg, ersten evangelischen Bischoffs zu Schwerin. pp. 6. OCLC 1181142714
- ^ Netherlands), Mauritshuis (Hague; Broos, B. P. J.; Suchtelen, Ariane van (2004) (英語). Portraits in the Mauritshuis: 1430-1790. Royal Picture Gallery. pp. 33. ISBN 978-90-400-9000-4