ウラジーミル・フォーゲル (俳優)
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Vladimir Fogel ウラジーミル・フォーゲル | |
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ウラジーミル・フォーゲル | |
本名 |
ウラヂミール・パヴロヴィチ・フォーギェル (Владимир Павлович Фогель) |
別名義 |
V・P・フォーゲル (В.П. Фогель) |
生年月日 | 1902年 |
没年月日 | 1929年6月8日 |
出生地 |
ロシア帝国(現 ロシア) モスクワ |
死没地 |
ソビエト連邦(現 ロシア) モスクワ |
国籍 | ソビエト連邦 |
民族 | ドイツ系ロシア人 |
職業 | 俳優 |
ジャンル | 映画 |
活動期間 | 1924年 - 1928年 |
活動内容 | 1924年 映画界にデビュー |
ウラジーミル・パヴロヴィチ・フォーゲル(ロシア語: Владимир Павлович Фогель, 1902年[1] - 1929年6月8日)は、ソビエト連邦(現ロシア)の俳優。
人物・来歴
[編集]1902年、ロシア帝国(現在のロシア)のモスクワにドイツ系の家庭に生まれる。
モスクワの技術学校を卒業したが、1917年の十月革命で流れが変わり、森林労働の仕事を辞めて、1919年(大正8年)に設立した全ロシア映画大学に入学する。同学で、レフ・クレショフの授業を選択する。1924年、クレショフが監督した映画『ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険』に役を得て出演する。以降、10数本の映画に出演する。
1929年6月8日、ソビエト連邦(現在のロシア)の首都モスクワで、うつ病の結果、自殺により死去した。満26-27歳没。
フィルモグラフィ
[編集]- 『ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険』 Необычайные приключения мистера Веста в стране Большевиков : 監督レフ・クレショフ、1924年
- 『死の光線』 Луч смерти : 監督レフ・クレショフ、1925年
- 『チェス狂』 Шахматная горячка : 監督フセヴォロド・プドフキン / ニコライ・シピコフスキー、1925年
- 『三百万裁判』 Процесс о трех миллионах : 監督ヤコフ・プロタザーノフ、1926年
- По закону : 監督レフ・クレショフ、1926年
- 『ミス・メンド』 Мисс Менд : 監督ボリス・バルネット / フョードル・オツェプ、1927年
- 『帽子箱を持った少女』 Девушка с коробкой : 監督ボリス・バルネット、1927年
- 『ベッドとソファ』 Третья Мещанская : 監督アブラム・ローム、1927年
- 『聖ペテルブルクの最後』 Конец Санкт-Петербурга : 監督フセヴォロド・プドフキン / ミハイル・ドレル、1927年
- Кукла с миллионами : 監督セルゲイ・コマロフ、1927年
- 『トルブナヤの家』 Дом на Трубной : 監督ボリス・バルネット、1928年
- 『囚われの地』 Земля в плену : 監督フョードル・オツェプ、1928年
- 『サラマンドラ』 Саламандра : 監督グリゴリー・ロシャリ、1928年