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ウガンダ (1971年-1979年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウガンダ共和国
Republic of Uganda
ウガンダ (1963年-1971年) 1971年 - 1979年 ウガンダ (1979年-1986年)
ウガンダの国旗 ウガンダの国章
国旗国章
国歌: Oh Uganda, Land of Beauty(英語)
おおウガンダ、美しき地
ウガンダの位置
公用語 英語
宗教 キリスト教
イスラム教
首都 カンパラ
大統領
1971年 - 1979年イディ・アミン
副大統領
1977年 - 1979年 ムスタファ・アドリシ英語版
変遷
アミンが権力掌握 1971年1月25日
アジア人追放1972年8月
ウガンダ・タンザニア戦争1978年10月30日
カンパラ陥落1979年4月11日
最後のアミン支持派追放1979年6月3日
通貨ウガンダ・シリング
現在ウガンダの旗 ウガンダ

1971年から1979年までのウガンダ(Uganda、1971-1979)は、イディ・アミンが権力を掌握してから失脚するまでの期間である。

尚、この期間は、ウガンダ第二共和国(ウガンダだいにきょうわこく、英語: Second Republic of Uganda)と呼ばれていた[1][2]

解説

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1971年に発生した1971年ウガンダクーデター英語版によって当時の大統領であったミルトン・オボテは失脚し、アミンが大統領に就任する。

ウガンダ経済は、アジア人追放や企業・産業の国有化、公共部門の拡大等、アミンの経済政策によって大きな打撃を受けた[3]。アミン政権下で殺害された人数は定かではないが、10万人から50万人と言われている。

1978年10月9日から始まったウガンダ・タンザニア戦争が激化していく中で、1979年4月11日タンザニアウガンダ民族解放戦線英語版は首都カンパラを占領、アミンはリビアを経由し、サウジアラビアジッダへと亡命した。同年6月3日には、最後のアミン支持派の残党が国内から追放され、独裁政権は崩壊した。

歴史

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アミン, 1975年

脚注

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  1. ^ Hansen 1977, p. 96.
  2. ^ Munnion, Christopher (12 November 1972). “The African who kicked out the Asians, who said Hitler was right, who has made his country a state sinister”. The New York Times: p. 35. https://www.nytimes.com/1972/11/12/archives/if-idi-amin-of-uganda-is-a-madman-hes-a-ruthless-and-cunning-one.html 1 April 2020閲覧。 
  3. ^ Weinstein, Jeremy M. (2009). Inside Rebellion: The Politics of Insurgent Violence. Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-67797-4 

引用文献

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  • Hansen, Holger Bernt (2013). “Uganda in the 1970s: a decade of paradoxes and ambiguities”. Journal of Eastern African Studies 7 (1): 83–103. doi:10.1080/17531055.2012.755315. 
  • Seftel, Adam, ed (2010) [1st pub. 1994]. Uganda: The Bloodstained Pearl of Africa and Its Struggle for Peace. From the Pages of Drum. Kampala: Fountain Publishers. ISBN 978-9970-02-036-2 

関連文献

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