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ウェッジウッド・ノウエル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウェッジウッド・ノウエル
Wedgwood Nowell
Wedgwood Nowell
1920年5月
生年月日 (1878-01-24) 1878年1月24日
没年月日 (1957-06-17) 1957年6月17日(79歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューハンプシャー州ポーツマス
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ペンシルベニア州フィラデルフィア
職業 俳優作曲家
ジャンル 舞台、サイレント映画トーキー
活動期間 1900年 - 1947年
配偶者 クレア・カウエル
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ウェッジウッド・ノウエルWedgwood Nowell, 1878年1月24日 - 1957年6月17日)は、アメリカ合衆国俳優作曲家である[1]Wedgewood Nowellと「e」の入る表記もある[1][2]

人物・来歴

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1878年(明治11年)1月24日ニューハンプシャー州ポーツマスに生まれる[1]

当初のキャリアは舞台から始まり[2]、1912年(明治44年)1月には、ニューヨーク市ブロードウェイビジュー劇場で、 The Right to Happiness の舞台に立った記録がある[3]。15年の舞台生活を経て、1915年(大正4年)に映画界へ進出する[1][2]

1916年(大正5年)、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に移籍、同年、レックス・イングラム監督、クレオ・マディソン主演の『空弾』に出演、1917年(大正6年)からは、前年にユニヴァーサル傘下に設立されたブルーバード映画で、『黒蘭』、『生の鼓動』、 The Mysterious Mr. Tiller, 『血の叫び』に出演[1]、1作を除いて日本でも公開された[4]。1918年(大正7年)にはユニヴァーサルを離れた[1]。1923年(大正12年)、 Jealous Husbands に出演したのを最後に、一旦映画界を離れる[1]

1932年(昭和7年)、時代はトーキーになり、映画界に復帰するも、ほとんどがノンクレジットの端役である[1][2]第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)、ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ監督の『ボストン物語』を最後に、満69歳で映画界を退いた[1]

1957年(昭和32年)6月17日ペンシルベニア州フィラデルフィアで死去した[1]。満79歳没。

フィルモグラフィ

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特筆を除きすべて出演作である[1]。1932年の復帰以降の90作以上の出演作は、ノンクレジットの端役が多く[1][2]、おもなものに留めた。

1910年代

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1920年代

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1930年代以降

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関連事項

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l Wedgwood Nowell, Internet Movie Database (英語), 2010年6月8日閲覧。
  2. ^ a b c d e Wedgewood Nowell, allmovie (英語), 2010年6月8日閲覧。
  3. ^ Wedgwood Nowell, Internet Broadway Database (英語), 2010年6月8日閲覧。
  4. ^ 『ブルーバード映画の記録』 : 製作・著・発行山中十志雄・塚田嘉信、1984年4月、p.60-63.
  5. ^ Bijou Theatre, Internet Broadway Database (英語), 2010年6月8日閲覧。

外部リンク

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