コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ウィロビー・ド・アーズビー男爵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウィロビー・ド・アーズビー男爵
Baron Willoughby de Eresby

紋章記述

Arms:Quarterly: 1st and 4th, Or fretty Azure (Willoughby); 2nd, Or three Bars wavy Gules (Drummond); 3rd, Ermine three Pomeis each charged with a Cross Or (Heathcote)
創設時期1313年7月26日
創設者エドワード2世
貴族イングランド貴族
初代初代男爵ロバート・ド・ウィロビー
現所有者28代女男爵ジェーン・ヒースコート=ドラモンド=ウィロビー英語版
推定相続人セバスチャン・ミラー
サー・ジョン・エアード英語版
付随称号なし
現況存続
モットーLoyauté me oblige
(Loyalty binds me)

ウィロビー・ド・アーズビー男爵: Baron Willoughby de Eresby,[ˈwɪləbi dɪ ˈərzbi][1])は、複雑な歴史と経緯を持つイギリスの男爵貴族イングランド貴族爵位。度重なる女系継承を経て、現在はヒースコート=ドラモンド=ウィロビー家が保持する。

なお、現在の同家は男爵位以外の爵位を持たない。

歴史

[編集]

男爵位の黎明

[編集]
一族の領地スピルズビーに位置するセント・ジェームズ教会。5代男爵が眠る。

一族の祖ロバート・ド・ウィロビー (1260-1317)リンカンシャーに位置するスピルズビー荘園英語版の封建領主であり、エドワード1世下のフランス及びスコットランド戦役に従軍した[2]。 彼はその晩年にあたる1313年7月26日貴族院よりウィロビー男爵 (Baron Willoughby) として議会招集を受けた[2][3]。 ロバートの後は、その息子ジョンが爵位を継承した[2][3]

2代男爵ジョン (1304–1349)クレシーの戦いにおける指揮官の一人を務めている[2]

3代男爵ジョン (1329-1372) が当主を務める1350年代に他家と区別する領地指定部分のド・アーズビー (de Eresby) が加えられている[3][4]。 ジョンの後も3代にわたって直系男子による継承がなされた[3]

5代男爵ウィリアム (1370–1409)グリンドゥールの乱の和睦交渉を行ったほか、初代ノーサンバーランド伯爵ヘンリー・パーシーの叛乱に際してもヘンリー4世への忠誠を示した[5]

その息子である6代男爵ロバート (1385–1452)百年戦争に参加して1417年にはガーター勲章を授けられている[2][6]。しかし彼が男子なく没したため、爵位は娘ジョアン (?-1462) に相続されるとともに嫁ぎ先であるウェルズ男爵家へと流出した[3]

私権剥奪の対象となる

[編集]
12代女男爵キャサリン・ウィロビー。バーティ家爵位継承の端緒となった女性。
ヘンリー8世より一族に下賜された邸宅グリムスソープ城英語版

7代女男爵ジョアンの夫リチャード・ウェルズ (1428?–1470) は1455年に妻の権利英語版に基いて、新規にウィロビー・ド・アーズビー男爵として貴族院より議会招集された[2][7]。 彼はウェルズ男爵家嫡男だったが、父ライオネル英語版の死後6年も経った1467年にウェルズ男爵位を継いだ[注釈 1][8][9][10]。しかしながら、彼の息子ロバートがエドワード4世に反旗を翻してエンピンガムの戦いを起こして敗れると、父子ともに私権剥奪の対象となり爵位は没収されてしまう。なお、エドワード4世は召し上げた両男爵家の領地を寵臣リチャード・ヘイスティングス英語版 (?-1503) に下賜している。

時代が少し下ったヘンリー7世の世になると状況は好転して、1485年頃にウェルズ父子の私権回復がなされた。そのため、7代女男爵ジョアン及びリチャード・ウェルズ夫妻を通してその息子ロバート (?-1470)、娘ジョアン (?-1475)、又従兄弟クリストファー、その子ウィリアムの順に爵位と領地が法令上は受け継がれたと解される[注釈 2][7]。ただし事実上の爵位継承はリチャード・ヘイスティングス死去時に存命だった10代男爵ウィリアムを待たなければならなかった[注釈 3][3]。 また、1455年の議会招集爵位たるウィロビー男爵は既に継承できる者が全員物故となっていたため、あらためて爵位廃絶となった[2]

10代男爵ウィリアム (1453–1499) には男子がなかったため、彼の後はその娘キャサリンが爵位を相続している[3]

11代女男爵キャサリン (1519-1580)初代サフォーク公爵と結婚したが先立たれたため、リチャード・バーティー (1517?-1582) と再婚している[11]。キャサリンが没すると、バーティ夫妻の長子ペレグリン英語版が爵位を相続したことで、男爵位はウェルズ家からバーティー家へと移っている[12]

栄達するバーティー家

[編集]
21代女男爵プリシラ

12代男爵ペレグリン・バーティ英語版 (1555-1601)式部卿を世襲する名門オックスフォード伯爵家令嬢メアリーと結婚して、長男ロバート (1582-1642) を儲けた[3][12][13]

13代男爵ロバートは1626年にイングランド貴族としてリンジー伯爵 (Earl of Lindsey) に叙されて、以降7代にわたって男爵位は伯爵位の従属爵位の役割を果たすこととなった[14][15]。 さらに初代伯の曾孫にあたる4代伯ロバート (1660-1723) の代に、グレートブリテン貴族としてリンジー侯爵 (Marquess of Lindsey) 及びアンカスター=ケスティーヴン公爵 (Duke of Ancaster and Kesteven) に昇っている[13][16]

しかし、4代公ロバート (1756-1779)猩紅熱で俄かに命を落とすと、ウィロビー・ド・アーズビー男爵位は妹プリシラジョージアナとの間で優劣がつかず停止状態に陥ったものの、1780年に男爵位がプリシラに帰属する形で解消された[17]。 公爵位を含む残りの爵位は4代公の叔父ブラウンローに継承された[13][17]

21代女男爵プリシラ (1761-1828)は襲爵の前年にピーター・バレルと結婚したことによって、男爵位はバーティー家からバレル家へと相続されていく[2][17]。(→以降の歴史は、リンジー伯爵を参照。)

バレル家への継承

[編集]

プリシラの夫ピーター・バレル (1754-1820)1796年グレートブリテン貴族爵位のグウィディア男爵 (Baron Gwydyr) に叙されたため、以降はグウィディア男爵家当主はウィロビー・ド・アーズビー男爵を兼ねることとなった[2][18]

ピーターの孫にあたる23代男爵アルビリック (1821-1870) は生涯未婚であったため、爵位は2人の姉クレメンティナ・エリザベスとシャーロット・オーガスタ・アナベラの間で一時的に保持者不在となった[17]。その後の1871年に上姉クレメンティナに男爵位の継承権がある旨の裁定が下り、この問題は落着した[19][20]。 一方で、グウィディア男爵位はアルビリックの従兄弟ピーターが継いでいる[17][18]

24代女男爵クレメンティナ (1809–1888)サー・ギルバート・ジョン・ヒースコート英語版と結婚した[17]。彼女が1888年に亡くなると再び女系継承が発生して、爵位はバレル家からヒースコート家へと移った[17]。(→以降の歴史は、グウィディア男爵を参照。

その後の歴史

[編集]
バニティ・フェア誌に掲載された初代アンカスター伯爵のカリカチュア
2代アンカスター伯。現在の爵位の共同推定相続人は彼の娘(姉妹)の子。

クレメンティナの夫ギルバート (1795-1867)1856年アヴェランド男爵 (Baron Aveland) に叙されたほか、その息子ギルバート (1830-1910)1892年アンカスター伯爵 (Earl of Ancaster)に陛爵した[21]。 ゆえに、男爵位はこれ以降は伯爵位の従属爵位として存続することとなった[2][3][21]。初代伯ののちは長男のギルバートが爵位を襲った[21]

2代伯ギルバート (1867-1951)保守党の政治家として活動したほか、父祖同様に同家が継承権を有する式部卿を務めた[21][22]

3代伯ロバート (1907–1983) はウィロビー・ド・アーズビー男爵を繰上勅書によって父ギルバートから相続し、貴族院に籍を得ている[21]。しかし、一人息子ティモシー (1936-1963)コルシカ島で遊泳中に消息を絶つと、アンカスター伯爵及びアヴェランド男爵位を継承すべき者が絶えたため、3代伯の死によって廃絶した[3][21][23][24]。 ただし、ウィロビー・ド・アーズビー男爵位は女系継承が再び発生して、娘ナンシーに相続された[3]

現当主である28代女男爵ナンシー (1934-) には息子も娘もいない[3]。したがって彼女がこのまま亡くなった場合、爵位はセバスチャン・セントモール=ミラー及び第4代準男爵サー・ジョン・エアード英語版の二人が共同推定相続人となり[注釈 4]、3度目の保持者不在に陥ることになる[3]

ウィロビー・ド・アーズビー男爵(1313年)

[編集]
ウィロビー家本来の紋章。1300年から1349年まではこの紋を用いている。
  • 初代ウィロビー・ド・アーズビー男爵ロバート・ド・ウィロビー (1260–1317)
  • 第2代ウィロビー・ド・アーズビー男爵ジョン・ド・ウィロビー (1304–1349)
  • 第3代ウィロビー・ド・アーズビー男爵ジョン・ド・ウィロビー (1329–1372)
  • 第4代ウィロビー・ド・アーズビー男爵ロバート・ウィロビー (1349–1396)
  • 第5代ウィロビー・ド・アーズビー男爵ウィリアム・ウィロビー英語版 (1370–1409)

爵位の法定推定相続人は存在しない。

爵位の共同推定相続人はセバスチャン・セントモール=ミラー(1965 - )及び第4代準男爵サー・ジョン・エアード英語版(1940 - )。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 彼の父はタウトンの戦いに敗れて私権剥奪を受けており、リチャードは1467年の議会法によって私権回復を果たすとともに、爵位を継ぐことができた。
  2. ^ 10代男爵ウィリアムのみ、1503年まではデ・ジュリ扱いであったが、以降はデ・ファクトとみなされる。理由は『注釈3』を参照のこと。
  3. ^ リチャード・ヘイスティングスはエドワード4世より両男爵家の地所を与えられたほか、新規にウェルズ男爵として議会招集を受けている。このため私権回復に際しては彼の権利を保障するため、その生涯において称号と領地を保持される旨も宣言されており、ゆえに10代男爵ウィリアムはヘイスティングス卿の存命時はデ・ジュリとして扱われた。
  4. ^ 前者は第2代アンカスター伯爵の長女の長男、後者は次女の長男にそれぞれあたっている。

出典

[編集]
  1. ^ Pointon, G.E. (1-September-1990). 『BBC Pronouncing Dictionary of British Names』. Oxford Reference (Subsequent ed.). Oxford Univ Pr. p. 261. ISBN 0-19-282745-6 
  2. ^ a b c d e f g h i j Debrett's peerage, and titles of courtesy, in which is included full information respecting the collateral branches of Peers, Privy Councillors, Lords of Session, etc. Wellesley College Library. London, Dean. (1921). pp. 42,43. https://archive.org/details/debrettspeeraget00unse 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m Willoughby de Eresby, Baron (E, 1313)”. The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. Cracroft Peerage. 2020年3月14日閲覧。
  4. ^ Mosley, Charles, ed (2003). Burke's Peerage, Baronetage & Knighthood (107 ed.). Burke's Peerage & Gentry. pp. 4193–4194. ISBN 0-9711966-2-1 
  5. ^ Cokayne 1959, p. 662.
  6. ^ Cokayne 1959, p. 663-664
  7. ^ a b Welles, Baron (E, 1299 - abeyant 1499)”. www.cracroftspeerage.co.uk. 2020年3月14日閲覧。
  8. ^ Cokayne 1959, p. 444.
  9. ^ Hicks 2004.
  10. ^ Ellis & Tomlinson 1882, p. 421.
  11. ^ EVELYN READ (1963). MY LADY SUFFOLK. Universal Digital Library. ALFRED A. KNOPF. https://archive.org/details/myladysunfolk006427mbp 
  12. ^ a b Lee, Sidney (1885). "Bertie, Peregrine" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 04. London: Smith, Elder & Co. p. 404-407.
  13. ^ a b c Lindsey, Earl of (E, 1626)”. www.cracroftspeerage.co.uk. 2020年3月12日閲覧。
  14. ^ Lindsey, Earl of (E, 1626)”. www.cracroftspeerage.co.uk. 2020年3月12日閲覧。
  15. ^ Henderson, Thomas (1885). "Bertie, Montague" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 04. London: Smith, Elder & Co. p. 403-404.
  16. ^ Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1910). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Ab-Adam to Basing) (英語). Vol. 1 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 127–128.
  17. ^ a b c d e f g (英語) Burke's Peerage (99th edition ed.). (1949). p. 52. https://archive.org/details/burkesgenealogic1949unse/page/52 
  18. ^ a b Gwydyr, Baron (GB, 1796 - 1915)”. www.cracroftspeerage.co.uk. 2020年1月6日閲覧。
  19. ^ No.23796”. The Gazette 14 November 1871. 2020年3月15日閲覧。
  20. ^ Cokayne, George Edward, ed. (1898). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (U to Z, appendix, corrigenda, occurrences after 1 January 1898, and general index to notes, &c.) (英語). Vol. 8 (1st ed.). London: George Bell & Sons. pp. 148–149.
  21. ^ a b c d e f Ancaster, Earl of (UK, 1892 - 1983)”. www.cracroftspeerage.co.uk. 2020年1月4日閲覧。
  22. ^ “Obituary: Earl of Ancaster”. The Times (The Times Digital Archive): p. 8. (20 September 1951) 
  23. ^ Peter W. Hammond, editor, The Complete Peerage or a History of the House of Lords and All its Members From the Earliest Times, Volume XIV: Addenda & Corrigenda (Stroud, Gloucestershire, U.K.: Sutton Publishing, 1998), page 24. Hereinafter cited as The Complete Peerage, Volume XIV.
  24. ^ Person Page”. thepeerage.com. 2020年1月4日閲覧。

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]