ウィリアム・リンジー (第18代クロフォード伯爵)
第18代クロフォード伯爵ウィリアム・リンジー(英語: William Lindsay, 18th Earl of Crawford PC、1644年4月 – 1698年3月6日)は、スコットランド貴族、政治家。
生涯
[編集]第17代クロフォード伯爵ジョン・リンジーとマーガレット・ハミルトン(Margaret Hamilton、1666年以降没、第2代ハミルトン侯爵ジェイムズ・ハミルトンの娘)の息子として、1644年4月に生まれた[1]。1678年に父が死去すると、クロフォード伯爵とリンジー伯爵位を継承した[1]。父が浪費家[2]で家計が火の車だったため、債権者を受託者として財産を預けざるを得ず、この状況は孫ジョンの代にあたる1747年時点でも続いていたという[1]。
熱心な長老派であり、1685年にジェームズ2世および7世が即位すると「良心のために」国を離れようとしたが、出国許可を得られなかった[2]。そのため、宗教迫害を逃れるために引退生活を送った[2]。そして、1689年にウィリアム3世および2世が即位すると、長老派における影響力を買われて復帰[2]、1689年から1693年までスコットランド枢密院議長を務めた[1](ただし、枢密顧問官への就任は1690年6月3日[1])。また、1689年から1692年までスコットランド大蔵卿委員を務めた[1]。
1698年3月6日に死去、息子ジョンが爵位を継承した[1]。
人物
[編集]英国人名事典はクロフォード伯爵の監督制への敵意を「過剰」(excessive)だとしつつ、その理由が政治ではなく宗教によることを認めている[2]。
家族
[編集]1670年3月8日、メアリー・ジョンストン(Mary Johnstone、1652年1月31日 – 1681年4月8日、初代アナンデイル=ハートフェル伯爵ジェイムズ・ジョンストンの娘)と結婚[1]、3男2女をもうけた[3]。
- ヘンリエッタ(1671年1月洗礼 – ?) - 1691年10月16日、ウィリアム・ベイリー(William Baillie)と結婚、子供あり
- ジョン(1672年頃 – 1714年) - 第19代クロフォード伯爵
- ジェイムズ(1707年没) - 軍人、アルマンサの戦いで戦死
- パトリック(1678年8月29日洗礼 – ?) - 子供なし
1689年までにヘンリエッタ・セトン(Henrietta Seton、1691年6月以降没、第2代ダンファームリン伯爵チャールズ・セトンの娘)と再婚[1]、1男6女をもうけた[3]。
- トマス(1723年9月4日以降没)
- アン
- クリスチャン
- マーガレット
- ヘレン
- スザンナ(1691年7月19日洗礼 – ?)
- キャサリン(1692年11月29日洗礼 – 1769年4月20日) - 1741年5月7日、パトリック・リンジーと結婚
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 520–521.
- ^ a b c d e Henderson, Thomas Finlayson (1893). . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 33. London: Smith, Elder & Co. p. 315.
- ^ a b "Crawford, Earl of (S, 1398)". Cracroft's Peerage (英語). 22 March 2005. 2020年7月6日閲覧。
公職 | ||
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先代 クイーンズベリー公爵 |
スコットランド枢密院議長 1689年 – 1693年 |
次代 アナンデイル=ハートフェル伯爵 |
スコットランドの爵位 | ||
先代 ジョン・リンジー |
クロフォード伯爵 1678年 – 1698年 |
次代 ジョン・リンジー |
リンジー伯爵 1678年 – 1698年 |