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ウィリアム・ノース (第6代ノース男爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゴドフリー・ネラーの絵画に基づく第6代ノース男爵のメゾチント

第6代ノース男爵および第2代グレイ男爵ウィリアム・ノース英語: William North, 6th Baron North and 2nd Baron Grey1678年12月22日 - 1734年10月31日)は、イギリスの軍人、貴族、ジャコバイト。1698年から1734年まで貴族院としての権利を有したものの、1722年から死去までの12年間は外国で過ごした。

ノースはノース家ではじめて軍人になった人物であり、中将まで昇進したが、ジャコバイトだったため1714年にアン女王が死去すると失脚した。アタベリー陰謀事件に関与したとして逮捕されたが、証拠不十分により釈放され、以降はスペイン王フェリペ5世のもとで軍人を務め、マドリードで死去した。

初期の経歴

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ケンブリッジシャーケルデコート英語版第5代ノース男爵チャールズ・ノースとキャサリン・グレイ(初代グレイ・オブ・ワーク男爵ウィリアム・グレイ英語版の娘)の間で生まれた。父は1673年にグレイ・オブ・ロールストン男爵に叙され、貴族院議員になったため、ノースは1691年に父が死去するとノース男爵とグレイ・オブ・ロールストン男爵を継承した[1]

ノースの家系には知識人が多く、叔父の初代ノース男爵フランシス・ノース英語版大法官を務めており、ほかにも叔父ダドリー・ノースが経済学者で叔父ジョン・ノース英語版トリニティ・カレッジ学寮長を務め、さらにもう1人の叔父ロジャー・ノース英語版が歴史家だった[1]。また姉に東方学者で言語学者のダドリア・ノース英語版(1675年 - 1712年)がいる。

ノースはケンブリッジ大学モードリン・カレッジとフーバート(Foubert)の軍事アカデミーで教育を受けた[2]

軍歴と政歴

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ノースは軍人への道を目指したものの、1689年から1691年までのウィリアマイト戦争では若すぎて参戦を拒否された。彼は代わりに1691年にフランドルに向かい、「ジェントルマン志願兵」として戦った[3]。1698年、貴族院議員としてはじめて登院した[4]。彼は長年マールバラ公爵の下で従軍、1704年8月13日のブレンハイムの戦いではノースおよびグレイ卿の歩兵連隊英語版を率いて戦い、右腕を失った[4][5]。1710年、中将に昇進した[3]

軍務以外では1711年12月6日から1715年10月28日までケンブリッジシャー統監英語版を務め(それまでは初代ノース男爵英語版第2代ノース男爵英語版第3代ノース男爵英語版も同職を務めたことがあった)、またアン女王から枢密顧問官に任命された[1][4] 。ノースは1714年にアン女王が死去した時点でポーツマス総督英語版であり、ジャコバイトに属した。ノース率いる駐留軍はスコッツガーズで構成されたが、毎日酒を飲むときはジャコバイトの支持する継承者ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートの健康を祝って乾杯したという。同じくジャコバイトのベリック公爵がポーツマスを基地としてイングランド侵攻を企んでいるとの憂慮があったため、ノースは即座に更迭されトマス・アール英語版が後任となった[6]。1720年、王立協会フェローに選出された[2]

1721年8月、フランシス・アタベリー英語版によるステュアート家復位の陰謀に関与したとして逮捕された(アタベリー陰謀事件)。しかし、だれもノースに不利な証言を拒否したため、彼は無事釈放された[7]。一方、ノースの代表で法律顧問のクリストファー・レイヤー英語版首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処された[8]。ノースは釈放された後、大陸ヨーロッパに向かったが、そのときにカトリックに改宗したとされる。1722年1月6日、ジャコバイト爵位のノース伯爵に叙された[9]。続いてスペイン王フェリペ5世のもとで将軍を務めた[4][6]

1734年10月31日、ノースはマドリードで死去した。ノースの死によりグレイ・オブ・ロールストン男爵は断絶したが[1]、ノース男爵と財産は親族の第3代ギルフォード男爵フランシス・ノース(ノースの叔父初代ギルフォード男爵フランシス・ノース英語版の孫)が継承した[10]

家族

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1705年、ネーデルラント連邦共和国の軍人Cornelis de Jonge van Ellemeetの娘マリア・マルガレータと結婚した[11]

ノースが死去した翌年(1735年)、マリア・マルガレータは第5代エリバンク卿パトリック・マレー英語版と再婚した[12]

脚注

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  1. ^ a b c d Sir Nicholas Harris Nicolas英語版, A Synopsis of the Peerage of England (1825), J. Nichols and son, p. 284.
  2. ^ a b Fellows Details”. Royal Society. 2014年5月10日閲覧。
  3. ^ a b Roger Burrow Manning, Swordsmen: the martial ethos in the three kingdoms (2003), Oxford University Press, p. 45, ISBN 0199261210
  4. ^ a b c d Cobbett, William. The parliamentary history of England, from the earliest period to the year 1803 (1810), p. 309.
  5. ^ Cannon, Richard英語版. Historical Record of the Tenth, or the North Lincolnshire Regiment of Foot (1847), p. 75.
  6. ^ a b Struthers, John英語版. The History of Scotland: From the Union to the Abolition of the Heritable Jurisdictions in 1748 (vol. 1, 1827), p. 230.
  7. ^ Eveline Cruickshanks, "Lord North, Christopher Layer and the Atterbury Plot: 1720–23", p. 94 in The Jacobite Challenge (Edinburgh, 1988), J. Donald Publishers, ISBN 0859762130.
  8. ^ Monod, Paul Kleber英語版. Jacobitism and the English People, 1688–1788 (1993), Cambridge University Press, p. 398, ISBN 0521447933.
  9. ^ Melville de Massue de Ruvigny, The Jacobite Peerage, Baronetage, Knightage & Grants of Honour (Edinburgh: T.C. & E.C. Jack, 1904), 129–30
  10. ^ Courthope, William英語版, ed., Debrett's Complete Peerage of the United Kingdom of Great Britain (1838), p. 132.
  11. ^ Nicolaas de Roever, Abraham Bredius, Oud Holland vol. 107 (1993), p. 87.(オランダ語)
  12. ^ The Right Honble Margeretta Maria Lady North & Grey at britishmuseum.org. Retrieved 10 June 2013

外部リンク

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軍職
先代
ベヴィル・グランヴィル英語版
ノースおよびグレイ卿の歩兵連隊英語版
1703年 - 1715年
次代
ヘンリー・グローヴ
先代
トマス・アール英語版
ポーツマス総督英語版
1712年 - 1714年
次代
トマス・アール英語版
名誉職
先代
ベッドフォード公爵英語版
ケンブリッジシャー統監英語版
1711年 - 1715年
次代
オーフォード伯爵
イングランドの爵位
先代
チャールズ・ノース
ノース男爵
1691年 - 1734年
次代
フランシス・ノース
グレイ・オブ・ロールストン男爵
1691年 - 1734年
断絶