イーゴリ・グレボヴィチ
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イーゴリ・グレボヴィチ Игорь Глебович | |
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イーゴリ・グレボヴィチの死 | |
死去 |
1194年 |
配偶者 | アグラフェナ・ロスチスラヴナ |
子女 |
ロマン イングヴァリ ユーリー フェオドシヤ |
家名 | リューリク家 |
父親 | リャザン公グレプ |
イーゴリ・グレボヴィチ(ロシア語: Игорь Глебович、? - 1194年[1])は、12世紀のリャザン公国において、公位をめぐり他の兄弟との相続争いに関わった人物である。リャザン公グレプの子。
生涯
[編集]史料には、1177年のコロクシャ川の戦い[注 1]において、捕虜となるところをかろうじて逃れたという言及がある。
同じく1177年に、前リャザン公であり、ウラジーミル大公国の捕虜となっていた父のグレプが死亡すると、リャザン公国はグレプの子のうちのイーゴリ、ロマン(ru)、ウラジーミルが共同統治を行うということになった。リャザン公位には長兄のロマンが就いた。1180年に兄弟間の紛争が起こったが、イーゴリは長兄のロマンの陣営に付き、ウラジーミル大公フセヴォロドの後ろ盾を得た、兄弟のウラジーミル、フセヴォロドと対立した。1186年に、ウラジーミル大公フセヴォロドの介入により、二度目の兄弟間の紛争が起きたが、この時にはウラジーミルと手を組み、プロンスク公国の援助を受けたフセヴォロド、スヴャトスラフ(ru)と争った。なお、この後ウラジーミル大公フセヴォロドは、不穏な状況にあるリャザンの公たちに、(名目上は)彼らの意志の元で、十字架への誓いのキスを強要した。
妻子
[編集]妻はキエフ大公ロスチスラフの娘アグラフェナ。子には以下の人物がいる。
- ロマン - リャザン公(1213年 - 1217年)
- イングヴァリ - リャザン公(1217年 - 1235年)
- ユーリー - リャザン大公(1235年 - 1237年)
- フェオドシヤ - ウラジーミル大公ヤロスラフ2世と結婚
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 「コロクシャ川の戦い」はロシア語: Сражение на Колокшеの意訳による。戦闘の経過についてはru:Сражение на Колокше (1177)を、戦場についてはコロクシャ川を参照。
出典
[編集]- ^ Бережков Н. Г. Хронология русского летописания
参考文献
[編集]- ブロックハウス・エフロン百科事典、サンクトペテルブルク、 1890 - 1907年