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インゲボー・ア・ダンマーク (ノルウェー王妃)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
インゲボー・ア・ダンマーク
Ingeborg af Danmark
ノルウェー王
在位 1263年 - 1280年
戴冠式 1261年9月11日

出生 1244年ごろ
 デンマーク
死去 1287年3月24/26日
結婚 1261年9月11日
配偶者 マグヌス6世
子女 オーラヴ
マグヌス
エイリーク2世
ホーコン5世
家名 エストリズセン家
父親 デンマーク王エーリク4世
母親 ユッタ・フォン・ザクセン
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インゲボー・ア・ダンマークデンマーク語:Ingeborg af Danmark, 1244年ごろ - 1287年3月24/26日)は、ノルウェー王マグヌス6世の妃。デンマーク王エーリク4世の娘。王母として息子エイリーク2世が幼年であった1280年から1282年まで、政治的に重要な役割を果たした[1]

生涯

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インゲボーはデンマーク王エーリク4世ユッタ・フォン・ザクセンの娘である。父が殺害されたとき、インゲボーは6歳ほどであった。母ユッタはザクセンに戻りクヴェーアフルト=ローゼンブルク伯ブルヒャルト8世と再婚し、インゲボーとその3人の姉妹は叔父クリストファ1世と妃マルグレーテ・サンビリアの宮廷で暮らした。インゲボーら4姉妹はデンマークの実質的な相続人であった。インゲボーが父親からの継承権を主張したことにより、後にノルウェーはデンマークとの争いに何十年にもわたって巻き込まれることとなった。

インゲボーはノルウェー王ホーコン4世の息子マグヌスと婚約した。ホーコン4世の指示によりホーセンスの修道院を使いと共に出発し、1261年7月28日にトンスベルグに到着した。1261年9月11日、ベルゲンにおいて結婚式が行われた。マグヌスとインゲボーは結婚後すぐに戴冠し、マグヌスはリーフィルケを与えられた。この結婚は幸せなものであったといわれている[2]

1263年12月16日、ノルウェー王ホーコン4世はヘブリディーズ諸島をめぐってスコットランドと争っていたときに死去し、マグヌスがノルウェー王位を継承した。インゲボーが王妃として政治的役割を果たしたかどうかは不明である。夫妻の間に生まれたオーラヴおよびマグヌスはどちらも早世したが、他の2人の息子エイリーク2世およびホーコン5世はノルウェー王位についた。

1280年、夫マグヌス6世が死去した。インゲボーは、正式に摂政に指名されたわけではなかったが、息子エイリーク2世が若年であった間、政治的に重要な役割を果たした。インゲボーの影響力は、エイリーク2世が1283年に成人した後にさらに大きくなった。インゲボーの主な同盟者は、夫マグヌス6世のはとこであり、ボルガルシスセル(現在のエストフォル県)の総督を務めていたアルヴ・エアリングソンであった。

従兄弟デンマーク王エーリク5世の治世の間に、インゲボーはデンマークにおける相続権について主張を始めたが、受け入れられることはなかった。このもっぱら私的な確執は、ノルウェーとドイツのハンザ同盟都市の間で対立を引き起こし、デンマークとの関係も緊張状態となった。ハッランド伯ヤコプを含むデンマークの貴族らはデンマーク王と対立しインゲボー側についたが、この状況がが集結する前にインゲボーは死去した。

子女

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  • オーラヴ(1262年 - 1267年3月15日) - 早世
  • マグヌス(1264年) - 早世
  • エイリーク2世(1268年 - 1299年) - ノルウェー王
  • ホーコン5世(1270年 - 1319年) - ノルウェー王

脚注

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  1. ^ Ingeborg Eriksdatter – utdypning”. Store norske leksikon. 2023年1月21日閲覧。
  2. ^ Bricka, Carl Frederik (1887-1905). “Ingeborg, Dronning af Norge”. Dansk biografisk Lexikon / VIII. Bind. Holst - Juul. p. 282. http://runeberg.org/dbl/8/0284.html 

参考文献

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