イルハン天文表
『イルハン天文表』(イルハンてんもんひょう、ペルシア語: زیجِ ایلخانی, ラテン文字転写: Zīj-i Īlkhānī、イルハン表、イルハン天文便覧とも)は、イルハン朝の君主フレグの命により、ナスィールッディーン・トゥースィーが中心となって編纂したズィージュ(天文表)である。イブン・ユーヌスの『ハーキム大天文表』などを基に、トゥースィーらが建設したマラーガ天文台での観測も踏まえて作成され、1270年代の前半には完成し、フレグの息子アバカに献呈された[1][2]。
成立
[編集]モンゴルでは占星術が重要視され、ナスィールッディーン・トゥースィーはその担い手として最も評価されていた。イルハン朝を興したフレグは、バグダード制圧後、トゥースィーに天文台の建設、天文表の作成を命じた。トゥースィーは、ムアイヤドゥッディーン・ウルディーやナジュムッディーン・カーティビーらと共に、イルハン朝の都マラーゲに天文台を建設、天文観測を行い、1270年頃に天文表を完成させた[3][4]。その頃、イルハン朝の君主はフレグの息子アバカに替わっており、天文表もアバカに献呈され、王朝を称えてその名を戴き、『イルハン天文表』と呼ばれた[3][2]。
特徴
[編集]『イルハン天文表』の原典は、ペルシア語で記された。数多くの写本や注釈が作られ、アラビア語にも翻訳されて、広く流通し、最も影響力があり多く読まれた天文表の一つとされる[1][5]。
『イルハン天文表』の構成は、
という4部構成となっている[2]。『イルハン天文表』で扱っている暦は、イスラム世界で用いられるヒジュラ暦、サーサーン朝のヤズデギルド3世の即位を起点とし、ゾロアスター教で用いられるヤズデギルド暦、セレウコス1世のバビロン奪還を起点とし、ヘレニズム文化圏で用いられるセレウコス暦、ユダヤ人の用いるユダヤ暦、セルジューク朝で用いられたジャラーリー暦、そして中国・ウイグル暦の6種類である[1]。イスラム世界の天文表で、中国暦が記されたのは、『イルハン天文表』が初めてである[5]。ヒジュラ暦と中国・ウイグル暦の換算、ヒジュラ暦、ヤズデギルド暦、セレウコス暦の相互換算の方法も記されている[6]。
『イルハン天文表』の序文によれば、トゥースィーは正確な天文表を作るのに30年以下の天文観測では無理だと主張したが、フレグは12年で完成させるよう迫った[3]。そのため『イルハン天文表』では、惑星などの基本パラメータを、イブン・ユーヌスの『ハーキム大天文表 (Zīj al-Kabīr al-Ḥākimī)』やイブン・アルアラムの『アドゥド天文表 (Zīj al-'Aḍudī)』[注 1]から採用しており、核心部分はマラーガ天文台の観測に基づくものではない[5][2][4]。しかし、遠日点経度や火星の周転円半径など、それ以前の天文表の値を借用したものとは明らかに異なるパラメータもみられる[4]。また、『イルハン天文表』には60個の恒星をまとめた星表と、もう一つ18個の恒星からなる星表があり、後者では、プトレマイオス、イブン・アルアラム、イブン・ユーヌスが観測した黄道座標が、トゥースィーの座標と並べて記載されていて、マラーガ天文台の独自観測による結果が用いられていることは、間違いないとみられる[1][4]。
『イルハン天文表』は、ビザンツ帝国のグレゴリー・コニアデスによって中世ギリシア語に翻訳されている。それを学んだクリソコッケス (George Chrysokokkes) が編纂した『ペルシアの天文学論文』は、天文表として『イルハン天文表』のものを用いており、ヨーロッパにも『イルハン天文表』は広まった[8]。
評価
[編集]『イルハン天文表』は、トゥースィーの天文学の業績の中でも注目を集めるものの一つであり、イスラム天文学史上において重要な成果の一つと評される[2]。しかし、短い期間で完成させる必要があり、古い天文表から引き写した時代遅れのパラメータを用いたため、同時代の天文学者からの評価は芳しくなかった。シャムスッディーン・ワーブカナウィー、ニザームッディーン・ニーシャブーリーらは、『イルハン天文表』が出て間もなく、批判を表明している[9]。特にワーブカナウィーは詳細に検証し、『イルハン天文表』に基づくと合・衝・食などの天文現象が観測と食い違うとして、手厳しく批判した。またルクヌッディーン・アームリー (Rukn al-Dīn al-Āmulī) も、トゥースィーは間違いを犯しており、そのことは当時からよく知られていた、と述べている[4]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 献呈した後援者アドゥド・ウッダウラが由来。著者名から『シャリーフ天文表 (Zīj al‐Sharīf)』、拠点から『バグダード天文表 (Zīj al‐Baghdādī)』とも[7]。
出典
[編集]- ^ a b c d Kennedy, E. S. (1956), “A Survey of Islamic Astronomical Tables”, Transactions of the American Philosophical Society 46 (2): 123-177, doi:10.2307/1005726
- ^ a b c d e Ballay, Ute (1990-11), “The Astronomical Manuscripts of Naṣīr al-Dīn Ṭūsī”, Arabica 37 (3): 389-392
- ^ a b c 黒柳恒男「ナスィール・ウッ・ディーン・トゥースィーの生涯と業績」『オリエント』第9巻、第2-3号、163-186頁、1966年。doi:10.5356/jorient.9.2-3_163。
- ^ a b c d e Mozaffari, S. Mohammad; Zotti, Georg (2013), “The Observational Instruments at the Maragha Observatory after AD 1300”, Suhayl 12: 45-179
- ^ a b c 須賀隆; 諫早庸一 著「『イル・ハン天文便覧』に見える中国暦・ヒジュラ暦換算表の再構 —モンゴル帝国期東西天文学交流の再考—」、相馬充; 谷川清隆 編『第5回「歴史的記録と現代科学」研究会』国立天文台、2019年1月、252-277頁。ISBN 978-4-9907389-5-2。
- ^ 諫早庸一「天文学から見たユーラシアの十三世紀–十四世紀 —文化の軸としてのナスィール・アッディーン・トゥースィー(一二〇一–一二七四年)—」『史苑』七九、二、89-114頁、2019年5月。doi:10.14992/00017940。
- ^ Casulleras, Josep (2007), “Ibn al‐Aʿlam”, in Thomas Hockey, et al., The Biographical Encyclopedia of Astronomers, New York, NY: Springer, p. 549, doi:10.1007/978-0-387-30400-7_673
- ^ Nikolaidēs, E. (2011-11-25). Science and Eastern Orthodoxy: From the Greek Fathers to the Age of Globalization. JHU Press. p. 111. ISBN 9781421402987
- ^ Şen, A. Tunç; Fleischer, Cornell H. (2019), “Books on Astrology, Astronomical Tables, and Almanacs in the Library Inventory of Bayezid II”, Treasures of Knowledge: An Inventory of the Ottoman Palace Library (1502/3-1503/4), Brill, pp. 767-821, doi:10.1163/9789004402508_025
関連文献
[編集]- Rufus, W. Carl (1939-05), “The Influence of Islamic Astronomy in Europe and the Far East”, Popular Astronomy 47 (5): 233-238, Bibcode: 1939PA.....47..233R
- Leichter, Joseph (2004-05). The Zij as-Sanjari of Gregory Chioniades. Brown University
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- “Zīj-i Īlkhānī”. Islamic Scientific Manuscripts Initiative. Max Planck Institute for the History of Science. 2020年11月10日閲覧。
- “イル・ハン表”. コトバンク. 2020年11月10日閲覧。