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イラン暫定政府

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イラン
ایران
パフラヴィー朝 1979年
2月4日 - 11月6日
イラン
イランの国旗
国旗
国歌: ای ایران(ペルシア語)
ああ、イラン
イランの位置
公用語 ペルシア語
宗教 イスラム教シーア派
首都 テヘラン
革命指導者
1979年2月4日 - 11月6日 ルーホッラー・ホメイニー
首相
1979年2月4日 - 11月6日メフディー・バーザルガーン
面積
合計1,648,195km²
変遷
イラン革命 1979年2月11日
国民投票1979年3月30日 ‐ 31日
イランアメリカ大使館人質事件1979年11月4日
首相・全閣僚辞任1979年11月6日
通貨イラン・リヤル
現在イランの旗 イラン

イラン暫定政府(イランざんていせいふ、ペルシア語: دولت موقت ايران‎、英:Interim_Government_of_Iran)は、イラン革命後にイランに存在した暫定政府である。

この政府は、イラン自由運動英語版のメンバーの一人であるメフディー・バーザルガーンによって率いられ[1]1979年2月4日ルーホッラー・ホメイニーの命令で結成された。イラン帝国最後の首相、シャープール・バフティヤール英語版はバーザルガーンとともに正当な首相であると主張した末、2月11日に逃亡した[2]。バーザルガーンは暫定政府の首相であり、2月14日に7人構成の内閣を発足させ、エブラーヒーム・ヤズディー英語版が外務大臣に選出された[3]

イラン・イスラーム共和国憲法は、1979年10月24日の国民投票によって採択された。しかし12月3日の発効を前に、首相と全官僚はイランアメリカ大使館人質事件直後の11月6日に一斉辞任した[4]。その後、1980年8月12日に最初の国民諮問評議会が設立されるまで、イスラーム革命評議会が国の政府の役割を果たしていた。

脚注

[編集]
  1. ^ Reza Safa (2006). The Coming Fall of Islam in Iran: Thousands of Muslims Find Christ in the Midst of Persecution. Charisma Media. pp. 78. ISBN 9781591859888. https://books.google.com/books?id=EF_dAgAAQBAJ&q=Interim+Government+of+Iran+mehdi+bazargan 
  2. ^ Mir M.Hosseini. “February, 5, 1979 A.D.: Bazargan Becomes Prime Minister”. The Iranian history article. 25 December 2018時点のオリジナルよりアーカイブ。17 July 2016閲覧。
  3. ^ Samih K. Farsoun, Mehrdad Mashayekhi (22 November 2005). Iran: Political Culture in the Islamic Republic. Routledge. pp. 173. ISBN 9781134969470. https://books.google.com/books?id=AwKKAgAAQBAJ&q=The+Provisional+Government+of+iran+bazargan 
  4. ^ Nikou, Semira N.. “Timeline of Iran's Political Events”. United States Institution of Peace. 10 August 2013閲覧。