イナムジョン・ウスマンホジャエフ
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イナムジョン・ウスマンホジャエフ(ウズベク語: Иномжон Бузрукович Усмонхўжаев、1930年5月21日 - 2017年3月17日)は、ウズベク・ソビエト社会主義共和国の政治家、ソ連共産党員。
生涯
[編集]- フェルガナ市出身。
- 1955年 - タシュケント工業大学を卒業。
- 1955年 - トラスト「フェルガナヴォドストロイ」技師、マルギラン市主任建築士、ウズベキスタン共産党フェルガナ州委員会教官、「セリホズテフニキ」フェルガナ州局長。
- 1961年~1965年 - フェルガナ市執行委員会議長。
- 1965年~1969年 - ウズベキスタン共産党シルダリヤ州委員会書記(産業担当)。
- 1969年~1972年 - ソ連共産党中央委員会組織・党業務課教官(カレリア自治ソビエト社会主義共和国とプスコフ州を監督)。
- 1972年~1974年 - ナマンガン州執行委員会議長。
- 1974年~1978年 - ウズベキスタン共産党アンディジャン州委員会第一書記。
- 1978年12月~1983年 - ウズベク・ソビエト社会主義共和国最高会議幹部会議長。
- 第10期、第11期ソ連最高会議代議員。1979年~1984年、ソ連最高会議幹部会副議長、1984年~1988年、同幹部会議員。
- 1983年~1988年 - ウズベキスタン共産党中央委員会第一書記。
- 1988年 - 「健康上の理由」で年金生活に入り、モスクワに転居。同年10月19日、ウズベク綿花事件に連座してモスクワで逮捕され、11月、ソ連共産党中央委員会政治局は彼を中央委員会から除名した。その後、ウズベク綿花事件の裁判で懲役12年を言い渡される。
- 1990年代初め、ウズベキスタンに帰国し、フェルガナ市に在住。
- 2017年3月17日に死去。遺体はフェルガナ州リシタンに葬られた[1]。
出典
[編集]- ^ “Скончался бывший руководитель Узбекистана”. ラジオ・フリー・ヨーロッパ. (2017年3月17日) 2017年3月19日閲覧。