イトクの森古墳
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イトクの森古墳 | |
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後円部墳丘 | |
別名 | イトクノ森古墳/イトクノモリ古墳 |
所在地 |
奈良県橿原市畝傍町(字前田) (池田神社境内) |
位置 | 北緯34度29分28.82秒 東経135度47分19.60秒 / 北緯34.4913389度 東経135.7887778度座標: 北緯34度29分28.82秒 東経135度47分19.60秒 / 北緯34.4913389度 東経135.7887778度 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 | 墳丘長30m |
築造時期 | 古墳時代前期 |
史跡 | なし |
地図 |
イトクの森古墳(いとくのもりこふん、イトクノ森古墳/イトクノモリ古墳)は、奈良県橿原市畝傍町にある古墳。形状は前方後円墳。史跡指定はされていない。
概要
[編集]奈良盆地南縁、畝傍山東麓に築造された小古墳である。古墳名は、『諸陵図考』の畝傍村に懿徳天皇(第4代)の陵が所在するとの説に基づく[1]。現在は橿原神宮外苑に位置し、墳丘上に池田神社が所在する。1908-1909年(明治41-42年)の採土等によって前方部墳丘は失われている[2]。
墳形は前方後円形で、前方部を東方向に向ける。明治期の採土に際しては、土器・石槍・石鏃などが出土している。当時土器は弥生土器と見誤られ(現在は布留式中葉の古式土師器とされる[3])、前方後円墳の成立が金石併用時代(弥生時代)まで遡るか否かについて高橋健自・後藤守一などが論争を展開し、小規模ながら学史的に著名な古墳になる[2][1]。築造時期は古墳時代前期頃と推定される[1]。
遺跡歴
[編集]- 1908-1909年(明治41-42年)、前方部の採土。土器・石槍・石鏃の出土[2]。
- 1921・1922年(大正10・11年)、高橋健自が土器・石器を古墳に伴うものと判断して、前方後円墳の発生が金石併用時代に遡る例として紹介[3]。
- 1923年(大正12年)、後藤守一が前方後円墳であることを否定(梅原末治も同様の見解)。
- 1923年(大正12年)、森本六爾が現地での聞き取り・観察を基に、前方後円墳であることと遺物の古墳帰属を主張[3]。
- 1961年(昭和36年)、末永雅雄が工事参加者の実見談と東京国立博物館の記録を照合[3]。
脚注
[編集]- ^ a b c イトクノ森古墳(平凡社、刊行後版) 2006.
- ^ a b c イトクの森古墳(古墳) 1989.
- ^ a b c d 橿原市史 本編 上 1987.
参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 「イトクノモリ古墳」『橿原市史 本編 上』橿原市、1987年。 - リンクは橿原市ホームページ。
- 橋本裕行「イトクの森古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
- 「イトクノ森古墳」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名 刊行後版(ジャパンナレッジ収録)』平凡社、2006年。ISBN 4582490301。
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 高橋健自「考古學上より觀たる邪馬臺國」『考古學雜誌』第12巻第5号、考古學會、1921年、266-289頁。
- 高橋健自『古墳と上代文化(文化叢書 第9編)』国史講習会、1922年。
- 後藤守一「甕棺・陶棺について(一)」『考古學雜誌』第13巻第9号、考古學會、1923年、571-590頁。
- 森本六爾「大和国高市郡畝傍イトクノモリ古墳調査報告」『考古學雜誌』第14巻第1号、考古學會、1923年、32-42頁。
- 末永雅雄 著、橿原考古学研究所 編『橿原 -橿原市畝傍町-(奈良県史跡名勝天然記念物調査報告 第17冊)』奈良県教育委員会、1961年。
- 白石太一郎「橿原市イトクの森古墳」『奈良県の主要古墳2(緑地保全と古墳保護に関する調査報告2)』奈良県教育委員会、1974年。