イグナシオ・フローレス
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名前 | ||||||
本名 |
イグナシオ・フローレス・オランサ Ignacio Flores Ocaranza | |||||
ラテン文字 | Ignacio Flores | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | メキシコ | |||||
生年月日 | 1953年7月31日 | |||||
出身地 | メキシコシティ | |||||
没年月日 |
2011年8月11日(58歳没) メキシコ、クエルナバカ近郊[1] | |||||
身長 | 176cm | |||||
体重 | 75kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1971-1972 | クルス・アスル(ユース) | 28 | (1) | |||
1972-1990 | クルス・アスル | 389 | (11) | |||
代表歴 | ||||||
1975-1980 | メキシコ | 12 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
イグナシオ・フローレス(英語: Ignacio Flores Ocaranza、1953年7月31日 - 2011年8月11日)は、メキシコ・メキシコシティ出身の元サッカー選手、元メキシコ代表。サッカー指導者。ポジションはDF。
自国開催の1986年W杯でゴールを決めた、同じメキシコ代表・FWのルイス・エンリケ・フローレスは弟に当たる。
来歴
[編集]メキシコシティで生まれ育ち、16歳の時に地元のユースチームである、トルネロ・デ・ロス・バロス(Torneo de los Barrios)でサッカーを始めた。クラブ・アメリカ[2]とCFパチューカの入団テストを受けるもどちらも不合格に終わった。1970年1月にクルス・アスルの入団テストに合格し、ユースチームでプロとしてのキャリアをスタートさせた。1971年/1972年シーズンに28試合に出場して活躍すると、翌1972年/1973年シーズンよりフルチームに加入。以後4度のプリメーラ・ディビシオン(リーグ戦)制覇と2度のカンペオン・デ・カンペオーネス獲得(カップ戦。尚、もう一つのコパ・メヒコは未獲得)に貢献した。守備範囲が広く、攻守の切り替えが上手い事で定評があった。通算18シーズンもクルス・アスルに在籍したフランチャイズ・プレイヤーだった。1990年に36歳で現役引退。エスタディオ・アステカ(メキシコシティ)で開催された、引退試合のCDグアダラハラ戦には、フローレスの勇姿を見ようと多くの観客が詰めかけた。
メキシコ代表には1975年に初招集された。1978年アルゼンチンW杯にも出場した。1980年まで12試合、代表として出場した。
引退後は、クルス・アスルのジュニアアカデミーやBチームのクルス・アスル・オアハカ(es:Cruz Azul Oaxaca、2003年~2006年まで活動した)でコーチを務めていた。
2011年8月11日、メキシコ中南部のクエルナバカ近郊を車で旅行中に、何者かに銃を27発も乱射され、殺害された[1]。58歳没。犯人は不明だが、当所では麻薬密売ギャングたちの抗争地帯となっており、その筋のギャングである可能性が高いと言われている[1]。
タイトル
[編集]チーム
[編集]いずれもクルス・アスル時代
- プリメーラ・ディビシオン・優勝 : 1972年-1973年、1973年-1974年、1978年-1979年、1979年-1980年
- カンペオン・デ・カンペオーネス : 1972年、1974年
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- イグナシオ・フローレス – FIFA主催大会成績
- イグナシオ・フローレス - National-Football-Teams.com