イェグ
イェグ(Yegü, 生没年不詳)とは、チンギス・カンの次弟ジョチ・カサルの長男で、モンゴル帝国の皇族である。『元朝秘史』『元史』などの漢語資料では也古、野古、也忽、也窟と記され、『集史』などのペルシア語表記ではییگوYīgūと表記されている 。
概要
[編集]ジョチ・カサルには四十人近くの子供がいたと伝えられているが、モンゴル帝国の有力王族として名を残したのはイェグ、イェスンゲ、トクの三人のみであった。モンゴル帝国の建国(1206年)以前には成人していたようで、『元朝秘史』にはケレイト部との戦いから敗走した後、テムジン(チンギス・カン)よりはぐれたジョチ・カサルと息子たち(イェグ、イェスンゲ、トク)がバルジュナ湖で合流した事が記録されている[1]。
ジョチ・カサルの没後、イェグはカサル・ウルスの当主となった。『元朝秘史』ではオゴデイ・カアンの時代の「右手の諸王の頭」をチャガタイとバトゥ、「左手の諸王の頭」をテムゲ・オッチギンとイェグと記しており、モンゴルの皇族の中でも高位にあったことが窺える[2]。
1251年6月には他の「東方諸王」、弟のイェスンゲとトク、従兄弟のイルチダイ(カチウンの息子)、従甥のタガチャル(テムゲ・オッチギンの孫)、叔父のベルグテイらとともにコデエ・アラルのクリルタイに出席し、新たにモンケをカアンに推戴した。翌1252年10月にはモンケに命じられて高麗に遠征し、1253年に入って洪福源とともに高麗の禾山・東州・春州・三角山・楊根・天龍等の城を攻略したことが記録されている[3]。
『集史』によると、イェグの死後は息子のコルコスンが後を継いだという。しかし、コルコスンが早世すると今度はイェグの弟イェスンゲがカサル・ウルスの当主となり、以後イェスンゲの後裔がカサル・ウルス当主の座を世襲するようになった[3]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
- 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年
- 屠寄『蒙兀児史記』巻22