コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

アーデルハイト・フォン・メッツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アーデルハイト・フォン・メッツ
Adelheid von Metz
1037年にエーリンゲン修道院が設立された際のアーデルハイト(左下)(1420年頃)

出生 970年ごろ
死去 1039/46年5月9日
配偶者 ハインリヒ・フォン・シュパイアー
子女 コンラート2世
ユーディト
ゲプハルト3世英語版
ベリツァ
家名 マットフリーデ家
父親 メッツ伯リヒャルト/マトフリート?
宗教 キリスト教カトリック
テンプレートを表示
エーリンゲン協同教会にあるアーデルハイトの石棺

アーデルハイト・フォン・メッツ(ドイツ語:Adelheid von Metz, 970年ごろ - 1039/46年5月9日)は、マットフリーデ家のアダルベルトとゲルハルトの姉妹。神聖ローマ皇帝コンラート2世の母。

生涯

[編集]

アーデルハイトはザーリアー家ハインリヒ・フォン・シュパイアーと結婚し、989/1000年のハインリヒの死後にフランケン貴族(ポッポ5世ドイツ語版とも考えられている)と再婚した[1]1037年にアーデルハイトはエーリンゲン参事会修道院ドイツ語版(現エーリンゲン協同教会ドイツ語版)を設立し、13世紀以降、アーデルハイトはこの修道院の地下にある石棺内に埋葬されている。

ハインリヒとアーデルハイトとの間には2人の子女が生まれた。娘ユーディト(1034年4月30日以前、恐らく998年に没)はヴォルムス大聖堂に埋葬された。息子コンラート1024年にコンラート2世としてローマ王に選ばれ、1027年に皇帝として戴冠した。

2度目の結婚により、アーデルハイトはレーゲンスブルク司教ゲプハルト3世英語版および娘ベリツァ(カルフ伯ハルトヴィヒと結婚)の母となり、ベリツァから後の教皇ウィクトル2世が生まれた[2][3]

脚注

[編集]
  1. ^ Hansmartin Decker-Hauff: Der Öhringer Stiftungsbrief. In: Württembergisch Franken. Band 41 (Neue Folge 31). Historischer Verein für Württembergisch Franken, Schwäbisch Hall 1957, S. 17–31.
  2. ^ Franz Mögle-Hofacker: Bischof Gebhard III. von Regensburg (1036 – 1060). In Ratisbona sacra: Das Bistum Regensburg im Mittelalter; Ausstellung anläßlich des 1250jährigen Jubiläums der kanonischen Errichtung des Bistums Regensburg durch Bonifatius, 739–1989; Diözesanmuseum Obermünster, Regensburg, 2. Juni bis 1. Okt. 1989 das Bistum Regensburg im Mittelalter. Schnell & Steiner, München 1989, S. 113–116. ISBN 3795406471.
  3. ^ Gerhard Taddey: Stiftungsbrief und Öhringer Weistum. In Öhringen, hrsg. von d. Stadt Öhringen. Red. Gerhard Taddey, Walter Rößler, Werner Schenk. Jan Thorbecke Verlag, Sigmaringen 1988, S. 55–61.

参考文献

[編集]