アーサー・ゴア (第3代アラン伯爵)
第3代アラン伯爵アーサー・サンダース・ゴア(英語: Arthur Saunders Gore, 3rd Earl of Arran、1761年7月20日 – 1837年1月20日)は、アイルランド王国出身の貴族、政治家。トーリー党所属[1]。
生涯
[編集]第2代アラン伯爵アーサー・サンダース・ゴアと1人目の妻キャサリン・アンズリー(Catherine Annesley、1770年11月23日没、初代グレローリー子爵ウィリアム・アンズリーの娘)の息子として、1761年7月20日に生まれた[1]。
1787年12月29日、メアリー・タイレル(Mary Tyrrell、1767年頃 – 1832年8月31日、第5代準男爵サー・ジョン・タイレルの娘)と結婚した[1]。
1783年にドニゴール・バラ選挙区とボルティモア選挙区で当選して、後者の代表として1790年までアイルランド庶民院議員を務めた[2]。1800年12月16日にドニゴール・カウンティ選挙区で無投票当選したが[2]、直後に1800年合同法の発効によりアイルランド議会が解散された。連合王国議会ではドニゴール選挙区の代表として引き続き庶民院議員を務め、議会で小ピット派として行動した[3]。また、1805年5月にはカトリック解放法案に反対票を投じた[3]。1806年イギリス総選挙に出馬せず、議員を退任した[3]。
1809年10月18日に父が死去すると、アラン伯爵位を継承したが、アイルランド貴族代表議員選挙への投票が許可されたのは1821年3月30日のことだった[1]。
1837年1月20日にボグノア近くの自領であるアラン・ロッジ(Arran Lodge)で死去、27日にその近くのフェルパムで埋葬された[1]。弟ウィリアム・ジョン(1836年1月15日没)の息子フィリップ・ヨーク・ゴアが爵位を継承した[1]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1910). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Ab-Adam to Basing) (英語). Vol. 1 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 228–229.
- ^ a b "Biographies of Members of the Irish Parliament 1692-1800". Ulster Historical Foundation (英語). 2020年4月17日閲覧。
- ^ a b c Aspinall, Arthur (1986). "GORE, Arthur Saunders, Visct. Sudley (1761-1837), of Castle Gore, co. Mayo.". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年4月17日閲覧。
アイルランド議会 | ||
---|---|---|
先代 ヘンリー・ヴォーン・ブルック ヘンリー・コープ |
庶民院議員(ドニゴール・バラ選挙区選出) 1783年 同職:ヘンリー・ハットン |
次代 ヘンリー・ハットン サー・ジョン・エヴァンス=フリーク準男爵 |
先代 ウィリアム・エヴァンス ジェームズ・チャタートン |
庶民院議員(ボルティモア選挙区選出) 1783年 – 1790年 同職:リチャード・ロングフィールド |
次代 サー・ジョン・エヴァンス=フリーク準男爵 リチャード・グレース |
先代 ヘンリー・ヴォーン・ブルック アレクサンダー・モンゴメリー |
庶民院議員(ドニゴール・カウンティ選挙区選出) 1800年 同職:ヘンリー・ヴォーン・ブルック |
次代 連合王国議会 |
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
新設選挙区 | 庶民院議員(ドニゴール選挙区選出) 1801年 – 1806年 同職:ヘンリー・ヴォーン・ブルック 1801年 – 1802年 サー・ジェームズ・ステュアート準男爵 1802年 – 1806年 |
次代 サー・ジェームズ・ステュアート準男爵 ヘンリー・ヴォーン・ブルック |
アイルランドの爵位 | ||
先代 アーサー・サンダース・ゴア |
アラン伯爵 1809年 – 1837年 |
次代 フィリップ・ヨーク・ゴア |